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利他学会議レポート:分科会2「自然と利他」
ゲスト:井田茂(東京工業大学 地球生命研究所(ELSI)教授)/塚谷裕一(東京大学 大学院 理学系研究科 生物学専攻教授)
ホスト:伊藤亜紗・中島岳志(司会)・若松英輔・磯﨑憲一郎

2022.02.24

空模様はいっこうに晴れ間が見えぬまま、あっという間にお昼が終わり、時間は13:00へと近づきます。これから始まる分科会2のテーマは「自然と利他」。東京工業大学の地球生命研究所(ELSI)から井田茂教授、そして東京大学 大学院 理学系研究科 生物科学専攻から塚谷裕一教授という、宇宙と植物の専門家をそれぞれお一人ずつお迎えしてお送りいたします。

このプログラムで司会をつとめられる中島岳志先生は「自己と他者がテーマになるのではないか」と予見。さてどんなお話が展開するのでしょうか。まずは井田茂先生のお話からスタートです。

自然と利他〜宇宙系の科学者から見ると〜(井田茂先生のお話)

井田先生は、大学で宇宙論・相対論を専攻して以降、大学院では地球物理・太陽系、助手時代は太陽系・銀河、そして助教授時代は系外惑星系・衛星系、といった研究分野を経て、現在は東京工業大学の地球生命研究所(ELSI)でアストロバイオロジー(宇宙における生命の起源・進化・伝播・未来)や地球外生命の研究をされています。私なんかから見るとざっくり「長いこと宇宙の研究をされているんだなあ」と思ってしまいますが、実はこのなかでも宇宙論と地球物理では視点のスケールがまったく異なるそうで、この分野の行き来には大変苦労されたというお話を以前うかがいました。

そうやって地球を、宇宙を、生命を、長い時間をかけて遠くから近くから考え続けてこられた井田先生のこの度のお話の導入の言葉はあっと驚くものでした。「いろいろ考えているとよくわからなくなったので、よくわからない、という話をします。」

●1つめの「わからない」:自然

「自然」とは何か。心以外? 人工物以外? じゃあ里山は、空気は、ビッグバン宇宙は?? たしかにそう問われると、すっきり答えられないことに気づきます。見渡す限り木々が生い茂っていて川が流れ、空には鳥が飛んでいる、といった場所へ行くと「大自然だ」と思ったりしますが、じゃあどこからどこまでが自然で、どこからはそうでないか、というその境界については曖昧な印象しかもっていません。

この「わからない」の理由について、井田先生は「生命と地球がお互いに依存し、影響し合っているから」と言います。「太陽光、植物、動物(ヒト)、微生物は相互に依存していて、体内の微生物やウイルスは共存している。酸素大気は光合成生物の廃棄物で、生命は地球環境にかなりの影響を与え、またそれによって生命自身が変容しています。」つまり「ヒトと自然はバシッと分けることができず、連続的に複雑につながっている」ので、その明確な定義や境界は「わからない」というわけですね。

●2つめの「わからない」:生命

生命のわからなさについては、井田先生と藤島皓介先生(ELSI)をお招きした研究会でもずいぶんと考えさせられ、お話を聞けば聞くほど自分自身の在り様に不信感を抱き始めてたいそう恐ろしい思いをしましたが、ここで井田先生が主張されているのはただ1つ、私たちは「地球生命という共通の祖先から枝分かれしている一系統の生命しか知らない」ので、たとえば太陽系外の惑星に生命のようなものが見つかったとして、それが生命かどうかを定義できない、という問題です。

「そこに生命があるのか、そもそも何を生命と考えるのか、だんだんこれもわからない」と井田先生は話します。そして何が自然か、何が生命か、というわからなさを噛みしめていると、次にわからなくなるのは、自分と他者の境界です。

●3つめの「わからない」:自と他

分科会1で三宅陽一郎先生が「テセウスのパラドックス」を例に出しながら「生命とは何か」という問題について話されていましたが、井田先生はこの件にも触れながら、「生殖細胞は無限回の分裂をする(不死)」、「体細胞は寿命を持ち、どんどん入れ替わっている」、さらに最新テクノロジーを使えば「ゲノムや記憶は今や編集可能」であり、「身体と意識は分離可能」であると話します。

つまり、「どこが自分なのか、は簡単な話ではない」。「自と他の区別をどう考えたらいいのか、生物学的なアイデンティティとは何か、よくわからなくなってきてしまいました。」。

「自然」はあいまい、「生命」はあいまい、「自・他」もあいまい

井田茂

●異なる複数の視点

さて、井田先生が私たちの存在に関する根本的な定義が、実はすべてあいまいであるということを明らかにした上で次に語ったのは、「視点」の重要性です。まずA「日常の視点」、B「超越的視点」という2つの視点があるとして、それぞれの視点を使って考える分野や学説として以下の例を挙げました。

A 日常の視点:天動説、決定論、定常静止宇宙、ニュートン力学など

  → 私につながる科学:環境科学、地球科学、医学、生物学(新型コロナの問題なら、臨床医学、公衆衛生学)

B 超越的視点:地動説、量子力学(波動関数、不確定性原理)、ビッグバン宇宙、一般相対論など

  → 天空の(俯瞰的)科学:天文学、宇宙論(新型コロナの問題なら、数値的感染症学)

たしかに、日常的に使っている自分を起点とした視点からは、天動説を想像するほうが簡単です。地動説を実感するには、よくテレビで見る宇宙から見た地球のCGなんかを頑張って思い描いて、やっとたどり着ける感じがあります。

さらに、井田先生はこの間に位置するものとして、系外惑星、生命の起源、地球外生命、そして感染症の問題も挙げました。これらはAとBの「双方の視点をもって横断的に見なければ見えてこない」。このように、考える対象によって「適切な視点」というものがあるのですね。

自然を語るときは、異なる複数の視点で見るべき

井田茂
思考を始めるための重要な起点をたくさん投げかけて井田先生のお話はいったんここで終わりましたが、これらはこのあと始まる塚谷先生のお話とあらゆるポイントでつながりながら、その後のディスカッションへとなだれ込みます。では、井田先生が話してくださった問題を、植物を通じて別の角度から解説してくださった、塚谷先生のお話を聞いてみましょう。

植物の利他(塚谷裕一先生のお話)

東京大学塚谷研のウェブサイトでは「植物好きが高じて研究者になった」と紹介されている塚谷先生、小さい頃から植物に興味をお持ちだったご様子です。井田先生が長いこと宇宙と地球と生命に取り組んでこられたように、塚谷先生は長年植物のことを考えて過ごされてきたのですね。そんな生粋の植物学者である塚谷先生のお話は、「植物のほうから利他をお話しします」と言って始まりました。

●植物に「自・他」はあるか

井田先生が先ほど「3つめの『わからない』」として話しておられた「自・他」の問題に、塚谷先生は植物から迫ります。まず、ヒトの「自・他」を分けるポイントとして塚谷先生が挙げたのは、医学的な自他の認識としての「臓器移植の可否」。たとえば、免疫が一致するため臓器移植が可能な近親者を「自」、遺伝などの型が違うため臓器移植が不可な人を「他」、という分け方ができるということですね。球科学、医学、生物学(新型コロナの問題なら、臨床医学、公衆衛生学)

これと同じ基準が植物にもあるそうなのです。人間の臓器移植を植物の接ぎ木と考えると、やはり活着する場合としない場合がある。ただし、「種を超えてカボチャにスイカを接ぎ木しても活着するケースがたくさんある」、「そもそも挿し木や接ぎ木でクローン繁殖が可能」──こうなると自他の区別の基準として、接ぎ木の可不可を植物にあてはめるのは難しくなってきます。さらに、春になると日本全国各地で世界を桜色に彩るソメイヨシノ、あれはなんとすべて同じ株をクローン繁殖してつくられたそうなのですが、そうするとあれはすべて「自」とも言えるのではないか、という問題が浮上。ここで塚谷先生は根本的な疑問を投げかけます。「そもそも植物の“個”とは何か。」球科学、医学、生物学(新型コロナの問題なら、臨床医学、公衆衛生学)

持って生まれた器官を生涯大事に使い続けるヒトと違って、植物は生まれたときにはほとんど何も持っておらず、だんだん器官を増やしていく、つまり「体を継ぎ足していく生き物」だと塚谷先生は言います。たとえば1本の大きな樹には、根があり、幹があり、その先には無数の枝があり、葉がありますが、この枝から先は、「ファイトマー(茎と葉と脇芽のセット)を次々に継ぎ足していくモジュール構造」になっており、これらのパーツは切り離して独立させることも可能です。球科学、医学、生物学(新型コロナの問題なら、臨床医学、公衆衛生学)

植物の「個」がどこまでの範囲かについては、人間になぞらえて考えるとはっきりしなくなるということで、塚谷先生はここで「個」について思考を深めるために、植物にとって明らかな「他」である昆虫との関係について話を進めます。

植物は、たくさんの「個」になりうるものが、一体として生きている

塚谷裕一

●植物にとっての「他者」、昆虫との関係

色とりどりの花にチョウやハチがやってきて(おそらく)蜜を吸っている、という光景はよく目にします。なんと平和的でほほえましい光景…! と顔を綻ばせていた私は、そのウラにある駆け引きにはまったく思い至っていませんでした。

まず、私も小さい頃に吸っていたあのおいしい花の「蜜」は、花粉を運ぶ昆虫(ポリネーター)への、その仕事に対する「お駄賃」である、と塚谷先生は話します。さらに花の色が時とともに変化するのは、このお駄賃である「蜜の量」を視覚的に示している(色が濃いと蜜の量が多い)。しかしこうなってくると、蜜がまったくないのに、いかにもたっぷりありそうな美しく濃い色の花を咲かせて昆虫をおびき寄せるという、ヒトの世界とまったく同じような騙し屋が出てくるそうで、またその一方で学習能力の高いハチなんかは、それがダミーであることに気づくとその花には近づかなくなる。なんたる攻防でしょうか。

そんななか昨今では、賢い昆虫向けには蜜の量と花の色の変化を関連づけるサービスを行い、愚かな送粉者が間違って蜜のない花に寄ってきた場合に備えて、そういう花にも花粉を残しておくという、二本立てのモデルが安定している、という説が濃厚だそうです。手を変え品を変え、そして状況に合わせてシステムに改良を加えつつ、植物は花粉を運んでもらうためにつねにその方法を最適化しているように思えます。

●植物と利他

昆虫たちは、蜜を求めてウロウロしているうちに、知らぬ間に花粉を運ぶポリネーターとしての役割を果たしてしまっています。植物側の意図としては「花粉を運んでもらうんだから、お礼に蜜をあげなきゃ」というわけではなく、子孫を残すための必死の作戦なわけです。「結局、すべては自分の花粉を運んでもらうために最適化している。利他的なわけではない」と塚谷先生は話します。加えて、太陽光を資源に光合成をして暮らし、移動不可能で病虫害の被害から逃げられない植物は、「近くに同一種があると困るため、そこに向けて利他をするメリットがない」。たしかに、変な場所に一株だけ生えている植物はうちの近所でもよく見かけます。

植物はかなり利己的で、自分の繁栄が最優先の唯我独尊な生き物

塚谷裕一
さて、これまでに利他研究会のレポートを読んでくださったみなさま、あるいは今年刊行になりました『「利他」とは何か』(集英社新書、2021)をお読みくださったみなさまは、ここでニヤリとするのではないでしょうか。「○○のために」という意図が発生しえないからこそ、そこに利他が生まれる隙間ができるかもしれない! と。

ディスカッション

宇宙、自然、生命、植物、といった私たちの普段の目線とは少し違うところにある摂理のお話をうかがって頭がぐにゃぐにゃに柔らかくなったところで、センターのメンバーを交えたディスカッションの始まりです。先ほどはみなさまに水を向けてしまいましたが、実は上記のポイントでニヤリとしたのは私でした。しかし、先生方のディスカッションはそんな視点をはるかに超えたところで次々に展開していきます。

●我、自、他、そして器官とは

井田先生・塚谷先生の両方のお話に出てきた「自・他」の問題から、中島先生は「私」とは何か、ということを考える上で、仏教の「無我の我」のお話をします。絶対的な、分けることのできない確たる「私」は存在せず、出会いのなかで変わりゆく存在としての「私」がある、という話です(詳しくは、みんなのミシマガジンの中島先生の連載「利他的であること」第4回 業力─It’s automatic その3)や、『「利他」とは何か』(集英社新書、2021)の中島先生による第2章をお読みいただくとわかりやすいです)。ここで中島先生が「自」なるものの境界を少しゆるやかにしたところへ、さらに伊藤亜紗先生が「自・他の中間にあるようなものから質問してみたい」と口火を切ります。

「キカン(器官・機関)/ソシキ(組織)」は、私たちの体のなかにも存在するし、大学や会社のように外にも存在する。動物にとって「キカン/ソシキ」の損傷は致命的であったりするのに対し、植物にとっては何の障害にもならない。加えて、最近では障害をもった研究者が増えてきて注目するポイントが変わりつつあり、これまでは動物の群れで障害をもった個体は捨てられると考えられてきたが、案外進むスピードを調整するなどしてケアしていることもわかってきた。「私たちがずっと思ってきた障害、完全性、自然、合理性、弱肉強食──そうしたものだけではない自然の見え方があるんじゃないか。」

これらのお話を受けて、まず塚谷先生は「植物の“器官”は動物とかなり違う」と話します。動物は肝臓以外の器官がなくなると元に戻ることはない。植物もこの点は同じだが、ダメージを受けたものや古くなったものは使い捨てて新しくつくる、というやり方は「動けない」という特性に起因するのかもしれない。さらに塚谷先生は「個体」について次のように述べます。「機能の完全性ということで考えると、植物では葉っぱ一枚が人間の胎児にあたる。そう考えると、葉っぱ一枚が個体なのかもしれない。その個体が集まって上位の個体を作っているので、上位の個体にとっては、1つ1つの個体はなくなったら継ぎ足せばいい。」

「人と社会のような関係」、と塚谷先生は言いますが、たしかに、この上位の個体(つまり木にたとえるならその木全体)を人間に置き換えるより、国家や社会に置き換えたほうがうまく想像できます。そうなると人間は葉っぱ一枚にあたり、「使い捨て・・・」としみじみしていると、塚谷先生がさらに追い討ちをかけます。「植物は、虫に食われた部分の損傷がひどければ自分で切り離して捨ててしまうし、病気になった葉っぱが他に移りそうだったらその葉っぱを急いで外してしまう。また、一部がまとめて病気にかかったら、その部分を遮断して『ここから先は自分じゃない』ということにしたりする。」

一方、井田先生はこの問題に関して「障害というのは、マジョリティとちょっと違っているというだけで、個性であったり、見方によってはそれがアドバンテージにもなる」と話します。「見方を複数もつ重要性は、こういう例にもあてはまります。」

●植物と文学、内面とその宇宙

若松先生は、塚谷先生の『漱石の白くない白百合』(文芸春秋、1993年)やメーテルリンク(モーリス・メーテルリンク、詩人、1862-1949)の植物やミツバチの研究について触れながら、植物学者と文学のつながりについて話しました。メーテルリンクは「世界が混沌に陥ったときに植物やミツバチの研究をしながら、もう一回人間の秩序を取り戻していくためにはどうしたらいいかについて、自然から学ぼうとした」。このときに、人間から自然を見ているだけではダメで、人間には見えにくいものが自然を学ぶことで人間のなかに開かれてくる、ということが大事だと先生は話します。そしてメーテルリンクが言う「世界をあまりに人間的に作りすぎてきたというのが近代の大きな闇」という問題について、若松先生は塚谷先生の視点を尋ねます。

「海外の思想関係の人たちは植物が好き。植物学は、いろんな思想家の心の拠り所になっていた」と塚谷先生は話し、その理由について次のように述べました。「人間と同じルーツをもち、基本的な仕組みがまったく同じ生き物である植物が、まるっきり違うシステムで生きていることを知ることによって、同じ生命としてこんなやり方もある、というのを見ることができる。」つまり、「なぜ人間がこういう生き方をしているのか」を相対化して考えるのにとてもいい方法だということです。「人間は植物を見るときについ擬人化してしまうが、ありのままに植物の生き方を見ると、いろんなことが見えてくる。」

人間が自分の意志でやっているつもりでも、実は植物と同じで機械的にやっているだけかもしれない

塚谷裕一
「宇宙」というのは、時間的無限(宇)+空間的無限(宙)を表す儒学の言葉。これが天体を意味するようになったのは近代になってからだそうです。それまでは、たとえば伊藤仁斎(儒学者、1627-1705)が論語のことを「最上至極宇宙第一の書」(歴史も世界もすべてひっくるめて最高)と言ったように、「宇宙」は時間と空間(内面世界含む)すべてを表す言葉だった。こう説明したのち、若松先生は井田先生に質問します。「内面としての“宇宙”は、井田先生から見るとどういうふうに見えるんでしょうか。」 宇宙の研究者が宇宙のことを考えるときには自然と宇宙のスケールで物事を考え、化学反応を考えるときにはナノスケールや10のマイナス5乗秒といったスケールで考える、と井田先生は話します。「たとえば宇宙は有限の過去からビッグバンで誕生し、開き始めて138億年です。たかが太陽が50周まわったくらいで、生まれたばかりでまだ落ち着いていない。」

138億歳の宇宙が、生まれたばかり。日常の視点に支配されている私からするとこれは驚くべき発言ですが、しかしこれがスケール変換をして物事を見る、ということなのですね。未来の人類研究センターが始まったばかりのころ、伊藤先生が第1回利他ラジオで「日常的な視点で物事を考えると、すごく短期的な判断しかできない…(中略)…我々は長期的な視点から“人類とは”というような大きいことを考えていきたい。そのために焚き火をして、いつも会ってる仲間だけど、火のまわりだと普段と違う会話ができる」と話していますが、焚き火はある種のスケール変換をするためのトリガーだったのか! とここで私は約1年のときを行って戻ってきました。

そして、こんなものすごい振れ幅のスケール変換を行って、天空とナノレベルを自由に行き来する井田先生は、人間の内面の話になると「よくまあそんな複雑なことをみんな考えるよね」と思う、というのです。「生命の起源、意識の起源、私とあなた…みたいな話は、捉え所がない。ただ、ゲノム科学や合成生物学、ブレーン・ネットワーク・インターフェースといった新しい分野が生まれて、少しずつ手が届くようになっている。」

宇宙のシステムを特徴づける時間で見れば、138億年はたいして経っていない

井田茂

●私たちはなぜ個にこだわるのか

「芸術を自己表現だと思っている人が本当に大嫌い」と言う磯﨑憲一郎先生。磯﨑先生はここで「なぜ人間だけが“個”であることにこだわりたくなってしまうのか」という疑問を投げかけます。これに対して井田先生は、昆虫や魚などは生殖細胞をつないでいくために生きていて、それがうまくいった個体はすぐ死ぬ、と説明。そして「人間はその後も生き続けるから「個」に対するこだわりが出ちゃっているのかな。本来、生殖細胞をつないでしまったら“個”は要らないものなのか。また、次へとつないだらすぐなくなってしまうような“個”に、なぜ人間の意識が強く向くのか。生物学的に見たらどうでしょう」と疑問を上乗せして塚谷先生に受け渡しました。

塚谷先生は、まず人間と植物の生殖についての仕組みを比較します。「人間は“個”と、“個の子孫をつくるための生殖能力”は一体となっている。人間は生殖に関わる器官をもって生まれ、女性は卵子をつくれる数まで決まっている。」生殖能力は「個」によって異なると考えると、「生殖」と「個」がつながっているというのもうなずけます。一方、植物は「枝葉の先端にある細胞がいつでも生殖細胞をつくれ」て、しかも「離れた枝では突然変異で遺伝子の組成が変わっているため生殖細胞が少し違っている」。これでは生殖能力の特徴と「個」を結びつけるには少し無理がありそうです。また、塚谷先生は、オスとメスが揃わないと生殖できない哺乳類と、孤立していても子孫を残せる植物の違いも指摘しますが、たしかにそういう点でも「個」というものの概念を同じようには考えられないことがよくわかります。

●一回性、偶然、必然、そして進化の問題

ここで「この話になるんじゃないかと思っていた」と言う中島先生は、リチャード・ドーキンス著の『利己的な遺伝子』(1976)、吉川浩満著の『理不尽な進化』(2014)を例に挙げながら、「今に至る生存戦略として“進化”を語れるのか?」と問い、ドーキンスの理論は「ナショナリストの歴史観に似ている」と話します。「現在の国家の枠組みは偶然の積み重ねによるものであるにもかかわらず、ナショナリストたちは時間が過去から現在ではなく、現在から過去に向かって流れている、つまり“どういう風に今に至ったか”について必然の物語を作り出そうとする。」」

本編とは少し逸れるのですが、中島先生の発言の「(ナショナリストたちは)時間が現在から過去に向かって流れている」のくだりで、塚谷先生がふっと左上を見上げる仕草をされます。「ん?」と考えているような仕草です。そしてそれとほぼ時を同じくして、井田先生も左上を見上げるのです。「時間が現在から過去に向かって流れている」という言葉を受けとったとき、同じように連動するお二人を見て、自然科学に立ち向かうお二人の共通点をその仕草に目撃したような気がしました。リアルの会がなかなか開ないのは残念ですが、こういう発見は、画面上にみなさんのお顔が同じ大きさで並んでいるからこそ、とも思いました。」

さて、中島先生は、九鬼周造(哲学者、1888-1942)について話を進めます。彼は「偶然・必然は“時間”の問題だ」と考えている。というのは、あらゆる現在は「偶然」であるのに、私たちはその偶然性を時間軸で過去に遡行することで必然的なものとみなそうとする、ということです。「偶然性というものは、驚愕であり驚異である。その驚愕に対する形而上学的な情緒というものが、ある種の偶然というものを担っている、と彼は言うのです。」

利他の問題と、生物の進化の問題の接点は「偶然性」

中島岳志
塚谷先生は「生物現象は基本的に偶然だと思っている」と話します。「地球上の進化の歴史はほとんど偶然で、もう一回やり直したら、今いる生き物が揃っている確率はほとんどゼロでしょう。」これに対して井田先生は「天体の環境変動と生命の進化は切り離すことができない」と話し、「必然と偶然は非常に階層的になっている」と言います。たとえば地球がどんどん冷えていくのは必然だが、かつて起こったように地球が全面的に凍る時期については偶然と言える。「どういうディテールまで見るかによって、偶然か必然かは変わってくる。ただ、地球については塚谷さんと同意見で、同じ大きさ・同じ距離の地球から始めても、45億年経ったら今とは全然違うふうになると思います。」

●もれる財産と所有

我、自・他、器官、植物と文学、内面と宇宙、個の問題、そして偶然性──と次々にテーマが展開していったディスカッションも終わりが近づき、最後に伊藤先生が提案したのは「所有」の問題でした。「所有」について伊藤先生は、「我々が自分の“個”を確固たるものにさせたいときによく出てくる概念」と言います。しかしそうやってとっておこうとしてもこぼれていくものがあって、自分の境界を超えて財産がほかの人の手に渡っていく、という藤原辰史さん(農業史研究者、1976-)による「もれる」という概念を紹介(『縁食論──孤食と共食のあいだ』(ミシマ社、2020)、『ちゃぶ台7』(ミシマ社、2021)収録のお二方の対談『「ふれる、もれる」社会をどうつくる?』をぜひご参照ください)。そして「もれる」はとても植物的だと話します。「根っこのネットワークで作ったものをもれ出させ、そこに様々な生物が集まって生態系が生まれていく。ここには偶然がいっぱい入っていて、環境と個体の関係をうまくつくっています。」

こうしていったん所有したものが「もれる」ことについて、塚谷先生は、植物はそういう意味では期せずしていろんなサービスをしている、と言います。私たちが吸っている酸素も植物が廃棄物として出したものなわけで、つまり植物から「もれた」ものが我々の手に渡っているということですね。先ほど伊藤先生がふれた根っこの分泌物と、それを利用する土壌微生物、それらに影響を受ける土壌空間のことを「根圏」というそうなのですが、この根圏だけでなく、植物は上からも下からも大量に財産がもれている。

植物の多くは、地下に貯蔵機関をつくってこの「財産」を貯め込んでいるそうなのですが、誰が貯め込む作業をしているのかというと、「葉っぱ」です。葉っぱは得た養分を、根っこを通じて地下に貯めていく。こうした貯えがあるとその植物は豊かに育ち、仮に上部が刈り取られてしまったりしても生きられる。しかし「葉っぱは光合成してつくったものをつねに根っこのほうに送って、いわば“投資”している状態。自分自身はいつか使い捨てされてしまってなくなる」という塚谷先生のお話を聞いていると、「ひと株の植物」と「葉っぱ」の関係は、人間とその器官というより、帝国主義国家とその国民みたいじゃないか…としんみりしました。

塚谷先生はこの分科会1を通じて植物の「個」を考えるにあたって、「接ぎ木(臓器移植)」「機能の完全性」「生殖」、そして「財産」といったたくさんの視点を提示した上で最後に「視点の置き方によって、植物においては何が“個”かというのは変わってくる」と話しました。「複数の視点をもつことの重要性」は、井田先生の最初のお話のテーマの1つでもあり、ディスカッションを通じても何度も出てきました。自・他、個、偶然・必然といった利他を考える上で絶対に関わってくる問題について、宇宙や植物を通じてお話をうかがいながら、「視点」についてもとても深く考えさせられました。

「偶然、というのは利他の核心にある大きな問題。他者に対する貢献を考えるときには、私たちが今いることの偶然性に目を向けることが、人間の問題であり、生物の問題であり、宇宙の問題でもある。」と中島先生がまとめ、分科会2は終了しました。この会の最後に若松先生が放たれた一言を太字にして、分科会2のレポートを終了したいと思います。

それぞれの分野が創造的に破壊されることで、新しい地平が出てくる

若松英輔
しかし、利他学会議第一日目はここで終わりではありません。このあと夜20:00から「エクスカーション」が始まります。分科会とは少し違うムードの何かなのだな、ということは想像がつきつつも、エクスカーションで何が起こるの? と思っている方も多いでしょう。その期待とお楽しみはそのまま、ぜひ20:00にまたつながってみてください。私はこのあと現場へと急ぎます。