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利他学会議レポート:分科会1「利他的な科学技術」
ゲスト:三宅美博(東京工業大学 教授)/三宅陽一郎(立教大学 特任教授)
ホスト:伊藤亜紗(司会)・中島岳志・若松英輔・磯﨑憲一郎・國分功一郎

2022.02.24

2021年3月13日(土)・14日(日)の2日間にわたって、未来の人類研究センターは初の主催イベント「利他学会議」を開催しました。2020年2月の発足以降、つねに新型コロナウイルスがそこにある世界で活動してきた未来の人類研究センターにとって、予定していたキックオフ・シンポジウムが延期・中止になった約1年後にやっと実現した、オープンな議論の場です。

伊藤亜紗准教授(センター長)、中島岳志教授(利他プロジェクトリーダー)、若松英輔教授、磯﨑憲一郎教授、國分功一郎特定准教授という5名のセンターメンバーがホストをつとめ、学内外の研究者や現場の実践者をお迎えした3つの分科会とエクスカーション、そしてメンバー5名のみの全体会、という5つのプログラムで構成された利他学会議。センター内では「合宿」と呼ばれていたこの2日間のイベントで、準備段階から先生方と一緒に走らせてもらいながら目撃した出来事を、これから文字にしながらもう一度追体験してみたいと思います。第一日目分科会1、まもなく始まります。

「分科会1「利他的な科学技術」

センターではこの1年、月に数回ずつ研究会を行ってきました。毎回およそ2時間にわたる研究会では、その回ならではの面白い展開が起こって感情を揺さぶられること甚だしいのですが、その時間がもはや日常とも思えるほど、研究会はセンターの活動の中核をなすものとなっています。今回の利他学会議は、いわばその研究会の親玉。いつもの2時間の研究会であれだけのことが起こるのに、それが2日間も続くとなるといったいどういうことになるのか、それを体験した私たちはどうなってしまうのでしょうか。
各プログラムの最初に流れるCMが終わり、センターの先生方がzoom画面に登場すると、その景色はいつもの研究会と変わらないのですが、やはり今回は、ここから二日間にわたる合宿が始まる…という緊張と興奮がありました。まずは、この分科会1の司会進行をつとめる伊藤亜紗センター長から、導入として「世の中を良くしたいと思うがゆえに発生する“先回りの善意”が、いかに対象となる人を窮屈にしてしまうか」、そして「同じことが科学技術にも起こっているのではないか」という問題提起がありました。

科学技術が想定する「人間」はとても狭く固まったものになっている

伊藤亜紗
「どうすれば人間の潜在的な可能性を引き出すような科学技術が考えられるだろうか」というテーマをめぐって、ここからまずは1人目のゲスト、三宅美博教授(東京工業大学 情報理工学院)のお話が始まります。ちなみに、分科会1のゲストは三宅美博先生と三宅陽一郎先生でお二方とも「三宅先生」なので、伊藤先生が「美博さん」と「陽一郎さん」と呼び分けることを会の最初に宣言されたことにならい、こちらでも下のお名前で書かせていただきます。

共創:人間を内側から支援するシステム(三宅美博先生のお話)

●自己と他者は果たして分かれているのか

利己は“take”、利他は“give”というイメージがあるけれども、“give”ではない「利他」というものがあるんじゃないか──美博先生のお話はこんなお話から始まりました。give and takeではなく、むしろ “give” is “take”=「人に与えること自体が与えられることである」、人間というのは「関係的」な存在である、と美博先生は話します。

ここで美博先生は、まず利己や利他の前に、「僕にとって『自』と『他』が分かれていることは自明ではない」と言います。「自己」と「他者」というものを、そういった前提がないところに生まれてくる生成的なものとして見ている。この発想は、美博先生が粘菌の研究をされていたときに生まれたものだそうです。「脳も神経もない巨大アメーバが複雑な自然界で判断しながら生きている。どこが頭でどこが手かもわからないような高度な可逆性をもったシステムが生きていて、つまり『分けない』という形で知性を高めた生き物がアメーバだったんじゃないかなと思うんです。人間にもこれと非常によく似た側面があって、特に身体が関わってくるときの潜在的なインタラクションのなかに、人間はまだそれをもっている。」

自分の頭と手すら分かれていない、ひいては自分とその他の生き物の境界もあいまいである、という景色が一瞬見えそうになった気がして、とてつもなく明るい気持ちになりました。しかし私たちは、普段放っておくととても「主観的な時間・空間を生きている」。逆にそんな私たちが他者と協力したりコミュニケーションをとったりできるのは「奇跡だなあ!という感じがする」と美博先生は言います。「つながって当たり前じゃない世界がつながっている。」ここに内側から世界をみたときの奇跡や感謝がある、と話す美博先生の声は本当にしみじみと実感のこもった力強いものでした。

●主観と主観がつながることができる「場」

さて、ではどうしてつながるはずのないものがつながるのでしょうか。ここで美博先生が差し込んだキーワードは「場」。これはさきほどお話に出てきた、人間のなかに残っているアメーバ的な部分「潜在的なインタラクションの領域」ともつながります。「我々が意識する世界のさらに下のところで我々を潜在的につないでいる領域、そこが共有されているなかで、初めて主観的な世界がつながる。」こういったことが起こるのが「場」であるというわけですね。さらに美博先生は「共創」という言葉の意味をとても丁寧に説明します。「“協調”と同じような意味で使う人がたくさんいるけれども、共創というのは“物事を内側から見ること”、そして当事者の立場から世界を捉え直したときに初めて現れてくる人との出会いに対する感謝が、共創的世界観の基盤にある。」

学者が外側からオブザーバーの立場で見る世界ではなく、当事者となって内側から見る世界。当事者にならなければ共創(=共に創り出すこと)はできない、と考えると、自然とそこは「自他非分離」の世界になる、ということなのですね。そのヒントが粘菌(アメーバ)の研究にあったことにまず驚き、そこで驚くということはもしかして私は無意識にいろんな生物に上下(かみしも)をつけているのか!と驚き、いろんな新事実に自分の中身を解体されるようでした。

共創とは、物事を当事者の立場で内側から見ること

三宅美博

●「場」を意識する鍵となる「間合い」

美博先生は、各自が持つ主観的な時間がどうして他者のそれと合うのか、という問題に迫る鍵として「間合い」に注目します。2人の人が互いに見えない状況下で、相手が押したときに聞こえる音に合わせてボタンを押す実験で明らかになったのは、「音が鳴るよりも先にボタンを押す」ことで「リズムが合っていると感じる」ということでした。つまり、私たちは「予測的に世界を知覚している」。このことは、私たちのなかに生まれている世界(内部モデル)が世界そのものであることを示しています。「未来を共創することがコミュニケーションの本質であり、そういう形で人間は信じ合うことができ、出会うことができる」

さらに、分離している自己と他者の主観的な世界をつなぐのは、意識の下にある「身体」である、と美博先生は話します。意図していないのに人と体が同調して動く、という経験は私にもあります。無意識に好きな人の仕草を真似てしまう、ということもありますね。また、このあとお話の最後のほうで先生が紹介された「話に合わせてうなずいてくれるロボット」、これがあればどんなに流暢に話せることでしょう。「うなづいてくれる」というだけでものすごく話しやすくなるというカラクリは「一緒に未来を作ってくれている」という実感からくるものだったのですね。それにしてもあのロボットがほしいです。

●実世界での応用

最後に美博先生は、ご自身の研究を応用した例を2つ紹介してくださいました。まずは「コミュニケーション場の可視化」。実際に行われるコミュニケーションの場を分類して現場にフィードバックするという試みで、これは東京工業大学の中野民夫先生の授業でえんたくんを囲んで話す学生約100人を対象に行われました。結果としては、えんたくんを囲む学生たちの間に、明確なEmpathy(共感)とSynchrony(体の同調)が見られ、トリガーとなる身体の動きについては、その大小は関係ないということがわかってきたそうです。

たとえ微弱でも身体の動きが揃ったときに「場」が発生し、共創が始まる

三宅美博
もう1つはWalk-Mate Robotです。これは、誰かと一緒に歩いているかのように運動に共創を引き起こすロボットで、そのからくりは「あたかも人と一緒に歩いているかのように拍子をとる」こと。人がこのロボットを装着して歩いている映像からは、「間が合う」ことで手足の動きが生き生きとし、活発になる様子が見てとれました。これはパーキンソン病の患者さんや、うつの治療にも使える可能性があるということです。1人で「間が合っている」というのも面白いと思いましたが、私たちは「間が合っている」と感じることで大きな力を得ているという事実に驚きました。

今後の展望として、美博先生は日本の共創の文化を人工システムの設計に活かせないかということを考えていると話します。日本古来の建造物に見られる縁側や軒先は、外と内の境界をあいまいにするものとして自他非分離の発想とつながるものであり、人と人が出会う場所であるわけです。そして借景。これは「積極的に何かをなくす」=「能動的不在」という設計で、そこに「場」が生まれる。こういう設計論を現代に生かすべく、チャレンジを続けておられるそうです。こうした日本文化が美博先生の中を一度通ると、いったいどのような科学技術としてあらわれるのか、ものすごく楽しみです。

人工知能にとっての他者と自分(三宅陽一郎先生のお話)

美博先生に続いて、分科会1のもう一人のゲスト、三宅陽一郎特任教授(立教大学 人工知能科学研究科)のお話が始まりました。陽一郎先生は2004年から人工知能の研究・開発に従事し続け、まさにゲームAIの世界を牽引してこられた方です。そんな陽一郎先生の人工知能開発の歴史は、「人間とは」「自己とは」「他者とは」という問題に向き合う時間でした。

●電子レンジを作るのと人工知能を作るのは、どんなふうに違うんだろう?

ゲームのなかに登場するキャラクターの人工知能はどのようにして作られるのか──私はそんなことはまったく考えずにただただこれまで楽しんでいろんなゲームをプレイしてきましたが、それを創り出す過程には、地球と生命をイチからつくるかのような困難と物語があったそうです。まず人工知能がその他の科学技術と大きく違うのは「科学でありながら哲学的な側面を持つ」こと。人工知能をつくるにあたってはどうしても「人間とは何か」という問題にぶち当たるようで、哲学的な側面とサイエンス、そしてエンジニアリングを含むという点で、これは半分理系・半分文系という稀有な学問だと言えるそうです。こうして人工知能がつくられてきた歴史、陽一郎先生がここに携わってきた月日とぴったり重なるこの20年弱の間には、「生物学や動物学などから知識を寄せ集めて、作ってみて知能っぽくなかったら設計しなおす」という、想像を絶する試行錯誤がありました。

人工知能を探究することは、人間を探求すること

三宅陽一郎

●東洋と西洋の人工知能観の違い

東洋と西洋では人間観や人生観や宇宙観など多くの違いがありますが、それは人工知能に関しても同じようです。陽一郎先生が人工知能という視点から見る哲学を研究してきた結果、東洋の人工知能は「場の中から生まれる」ものであり、西洋の人工知能は「ビルドアップ的なもの」、そして東洋では人工知能に「人間のパートナー」でいてほしいと思っているのに対し、西洋では「人間の下」に位置づけている、という点で大きな違いがあることがわかったそうです。

陽一郎先生はこの2つの異なる見解を組み合わせながら、人工知能の新しい形をつくっていこうとする立場ですが、さらに人工知能をつくる上では「アカデミックとゲーム開発では出発点が違う」とも話します。ゲーム開発では、ユーザーにはキャラクターに対し「ずる賢い!」「巧みにものを使うなあ!」などと感じながらゲームをしてほしいと考える、つまり「人工知能がどのようにして人間の主観にあらわれるか」を主眼に置きますが、一方でアカデミックな視点では機能やアーキテクチャなどの技術を積み重ねて人工知能をつくっていく。ゲームの人工知能をつくる上では、前者のような「見え方の人工知能」と、後者のような「本物の人工知能」の両方を取り扱いながら、2つの接点を探る作業でもあるそうです。

こうしたことを踏まえた上で、人工知能のつくり方には大きく2つの方法があります。まず1つ目は、「要素を積み重ね、構築的につくっていく」「足し算」的なやり方。これは推論を重ねて「デカルト的に組み上げる」西洋的な人工知能のつくり方です。もう1つは、「混沌の海から見つけ掘り出す」「引き算」的なやり方。「場」という混沌のなかから機能を削減したり切り取ったりして「ベルクソン的につくる」。こちらは東洋的なやり方と言うこともできます。

●考える人工知能から発達する人工知能へ

西洋の人工知能は、デカルトやライプニッツの時代から続く350年の歴史を持つ理路整然としたロジックなかで作られてきましたが、これが実は限界にきているというのは、多くの関係者が感じていることだそうです。そこで、これまでの思考する存在としての機能的な人工知能から、「気に入る/気に入らない」「喜ぶ」「悲しい」「欲求する」「恐怖する」「決断する」といった、いろいろな動詞をもった人工知能へという流れが始まっている。これは「自分というものは混沌のなかから立ちあらわれるもの」という東洋的な考え方にもつながります。さきほど美博先生がお話しされた「『自』と『他』が分かれていることは自明ではない」というお話ともリンクして、全然別の入り口から入ったお話がここで交差し始めました。

「自分」というものに向き合うとき、その境界を考える上で必要になってくるのは「他者」の存在です。陽一郎先生は「もし“他者”というものがなかったら、“世界=自分自身”になる」と話します。「自分がコントロールできない何かがあらわれ、主観的世界が切り取られていくことによって、“他者”というものを認識すると同時に、“自分”を形成する。こういう形で、発達的に人工知能をつくっていこうとしている。」

自己と他者は共創してつくられる

三宅陽一郎

●人工生命とは何か

さて、ここまで人工知能をつくる上で考えざるを得なかったお話をいろいろとうかがってきましたが、もう1つ避けて通れなかった大きな問題は、「人工生命とは何か」ということ。それを考えるにはまず「生命とは何か」を知る必要がありますが、これについては、センターではこれまでの研究会などでたくさん驚きとともに考えてきました。今回の陽一郎先生のお話にも、やはり「あっ」とつながるキーワードがいろいろと出てきます。

「生命というのは、海のなかで自己組織化されて“内側と外側”ができ、さらに代謝によって内側と外側の物質的循環が起こります。」これは大隅良典先生との利他鼎談ででてきた「生体膜」の話につながりますね! ここで軽く「生命」を説明した陽一郎先生は、次に「テセウスのパラドックス」について話します。老朽化した船の部品を替えているうちに、船の構造物をすべて入れ替えてしまった。さてこの船は元の船と同一のものと言えるかどうか、というお話です。この問題は井田先生、藤島先生をゲストにお迎えした研究会でも議論されていました。陽一郎先生はこの問題をどうお話されるのかなと興奮気味に聞いていたところ、先生はなんと、これを同じ船だと思うとしたらそれは「構造や情報が保存されているから」、と話しました。

同じように私たちの体も細胞がどんどん入れ替わっていっています。それでも同じ自分であるのは「生物が物質的存在であると同時に、情報的存在でもある」から。「“物質”は“身体”、“情報”は“精神”と言い換えることもできますが、これらはどのようにつながっているのか、生物を考えるときにはこの2つ(物質と情報)を同時に考えなければならない。そしてこの“物質”と同じように“情報”の循環をつくるのが人工知能をつくることでもあります。」

●環境世界と知能

陽一郎先生の声のトーンも表情も、始まったときからかなり一定なのですが、それでもこの辺りでだんだんお話が核心に近づいてきたようなムードが出てきました。そうして始まったのは「エージェント・アーキテクチャ」の話。エージェント・アーキテクチャとは、環境(世界)と知能を独立するものとして別々に置き、その間にセンサー(=環境から情報を取得する)とエフェクター(=環境に影響を与える)を置くことで一方向に情報が循環するという、世界と知能の結びつきをあらわす構造です。

情報が循環することで各モジュールが励起されて知能がつくられていく、というこのエージェント・アーキテクチャは、ユクスキュル(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、ドイツの生物学者・哲学者、1864-1944)が提唱した「環世界」(生物は自分の身体特性に伴って限定された環境に埋め込まれた形で刺激を受け、一定のアクションを施す)や、華厳哲学(大乗仏教の経典『華厳経』に盛り込まれている思想)における事事無碍(あらゆる事物はすべてつなぎ合わされ響き合っているという思想)ともよく似ているそうで、「人工知能でも生物学でも仏教でも、環境(世界)と知能をどうつなぐかというのは一大事であり、1つのテーマになっている」。

たとえばゲームの世界でいうと、人工知能をつくってゲームのなかに置いても「全然動いてくれない」。なぜなら「お腹も空かないし、痛みもないし、なんのこだわりもないただのポリゴンの塊だから」。ではどうやったら動くようになるのかというと、そのきっかけは仏教でいうところの「煩悩」なのだそうです。「あのプレイヤーが憎い!」でも「リンゴおいしそう!」でもなんでもいいから、何かに執着してほしい、偏見をもってほしい、とゲーム制作者たちは切に願う。「仏教が解脱を目指すとすれば、僕はなんとかキャラクターたちにこの世界にこだわりをもってほしい、執着してほしい、つまり、煩悩をもってほしいわけです。」陽一郎先生は、このグローバル化一直線の世界のなかで、世界を分節化し、偏見に満ちた目で見てみたり、解脱とは逆方向に進む道を探したりされているわけですね。「世界をあえて偏見や欲求に応じて色をつけて見ることで、キャラクターが自律的に動くようにしようと、そういうことをやっているわけです。」

●人間と人工知能、そして他者とは

そしてお話は大団円へと向かいます。私たちは普段、あまり深く考えなければ、自分以外をぼんやり「他者」として認識していますが、これは人間同士が「意識・無意識」「身体」「環境」といった次元でつながっているから、と陽一郎先生は話します。そこで人工知能が人間にとって「他者」となるには、同じように複数の次元でつながる必要がある。さらには、人間と人工知能の間に調和的な流れをつくることで「人間と人工知能がわかりあえる」もっと言うと「愛し合える」、というのです。 そこでこうしたことを発生させるために、「共創モデル」なるものがつくられます。これは「一個前の自分をもう一度取り込んで、無限に自分を創造しつづけるというプロセス」。これは「世界を食べて自分をつくっている」とも言えるし、また「自己は他者を巻き込んで、自己を形成する」すなわち「他者は自分の素材でもあり、自分自身でもある」とも言える。

ある次元において、自己的と利他的はそんなに変わらない

三宅陽一郎
「“世界と溶け合って一体になりたい”、“世界から独立して普遍的な存在でいたい”という2つ間を揺れ動いているのが知能の本質だと考えています。このアンビバレントな衝動が知能をつくり、そのなかで“他者”が巻き込まれて自分自身をつくっていく。」陽一郎先生はこう結んでお話を終えられました。

ディスカッション

三宅美博先生、三宅陽一郎先生のお話に出てきた「共創」「場」「間」「生成的」「自己的=利他的」といった共通のキーワード、加えて陽一郎先生の「引き算」のお話はこれまでセンターで話し合ってきた「隙間をつくること」や「うつわになること」につながります。そんな伊藤先生からの導入を挟んで、ここからはセンターメンバーの5名の先生方を含むみなさんでのディスカッションが始まりました。

●間(あいだ・ま)とは何か

まずは中島岳志先生が取り上げたのは、「人間と自然の間が合う」という美博先生の借景のお話、そして東洋のAIや間主観性での問題で語られた陽一郎先生の「間(あいだ・ま)」のお話。これらはセンターの利他プロジェクトで長く話し合われてきた「沿う」ということにつながる、と話しました。「沿う」という姿勢については、中島先生と料理研究家の土井善晴さんの対談(「自然に沿う料理〜一汁一菜と利他」ミシマ社MSLive!にて開催)や、2回の対談を経て生まれた書籍『料理と利他』(土井善晴・中島岳志著、ミシマ社、2020年)でもたびたび語られています。

これを受けて美博先生は「“間が合う”の“間”は、“のりしろ”だ」と話します。先ほどの美博先生のお話に出てきた間を合わせるロボットも、「縁側」や「軒先」も、何かと何かをつなぐ「のりしろ」であり、こうした「相互適用あるいは相互浸透する、出会える空間が必要」とした上で、美博先生はさらにこれをボーダー(境界線)になぞらえてお話を続けます。「理科系の感覚で言うと、システムはボーダーの内側にある。そのボーダーには面白いくらい厚みがないんです。そしてその厚みゼロの向こう側は一切わからない。ボーダーの内側は決定論的世界で、その向こう側はノイズ。これでは世界と人間がつながれないわけですよね。」

この厚みゼロのボーダーを、厚みがあって穴があいている生体膜のように、「お互いに乗り入れることができて相互浸透性を生むようなボーダー」にしていく必要がある、と美博先生は言います。空間的な話だけではなく、時間的にも本来は「現在という幅(=間)に未来と過去が染み込んできて“今”が生まれる」。すべて「粘菌という生物から学んだ」というこうした「間」の問題、あるいは「場」という考え方を生かして、美博先生は次のように力強く語られました。

僕らが切ってしまったゾーンにもう一度厚みをつくる、そんな自然科学や技術をつくりたい

三宅陽一郎
さて、ここで國分功一郎先生の登場です。國分先生は、美博先生が最初に話された、主観的に生きている人同士がつながるという、スポーツの現場で起こる奇跡について「本当に驚くべきことが起きている」と触れたのち、熊谷晋一郎さん(小児科医、当事者研究)との共同研究である自閉症のプロジェクトに関連して「自閉症はコミュニケーションに問題がある病気だと言われますが、これはおかしな話」と話します。「アメリカ人と日本人が話していてうまくコミュニケーションがとれないとき、『ああ、この人はコミュニケーション障害だ』とは言いませんよね。コミュニケーションというのは“間”で起こることだからです。」

さらに國分先生は、陽一郎先生のお話に出てきたAIに煩悩を持たせたいという件について「欲望がどうやって発生するのか、哲学的にもまだあまりよくわかっていないんだけれども、他者が関わっていることはまず間違いない」と話した上で、熊谷さんがやっておられる当事者研究について触れます。「当事者研究とは、自分の経験を自分にとって謎であるとして、それを研究して解き明かそうとするもの。主観的な経験として世界を見る現象学も重要なんだけれども、自分のなかの経験にもわからないことがあるという問題を、哲学やサイエンスは考えていかなければならない。

これに対して陽一郎先生は、「そこを解き明かすのは“身体”なのかなと思っている」と言います。人工知能をつくる上で陽一郎先生が取り組んできた問題について「知能と環境の間に、ぼくが取り組んでいる“間”というものがある」、「知能はダイレクトに環境を動かすことはできなくて、世界とダイレクトに結びついているのは身体」と話します。つまり、知能は身体を介してしか直接世界とつながれないというわけですね。しかし、身体は必ずしも「知能」の予定通りに動くわけでもなければ、意図的に環境から離すこともできない。つまり、知能と環境に直接関わりながら、どちらにも完全に侵食されることがない「間」としてそこに存在しているのが「身体」ということです。

我々の存在は「身体」によって切られていると同時につながっている

三宅陽一郎

●人工知能は他者か

美博先生による共創に関するお話で「自己組織した場を共有していく」という点が、「小説を書いているときの実感に非常に近い」と言う磯﨑憲一郎先生は、「極めて具体的で個人的なことしか書いていない小説を、なぜ読者が面白いと思って読んでくれるのかがよくわからない」と思っておられるそうですが、そこにはこの「自己組織した場を共有していく」という現象が起こっているのかもしれない、と話します。これはこの翌日に開催された全体会で磯﨑先生がこのあと話すことになる「一回性」の件ともつながるお話で、この利他学会議を通して磯﨑先生はずっと1つのことを話しておられたのかな、とも思いましたが、よく考えたら利他プロジェクトが始まって以来、磯﨑先生は同じ1つのことを話されているのかもしれないとも思いました。 この点はまた別のレポートや動画などを参照していただくことといたしまして、ここで磯﨑先生は「コロナ禍で人工知能が役に立たなかったことで、肉体の限界が人間の進化の限界ということが見えてきてよかったのかなと思った」と話します。これを受けてゲストのお二方は次のように話されました。

まず陽一郎先生は「人工知能のいいところは“人と人の間”や“場”に入れるところ」と話します。多くの科学技術は人間の役に立てるけど「人間と人間の間には入れない」。しかし人工知能は人と人の間に入ってコミュニケーションを円滑にしたり、何かを伝えたりすることができる。しかし現時点でこういったことができるのは限定された状況下のみです。「何のフレームも制限もない世界では人工知能はいまだに無力ですが、技術者としてはこれから期待してください、と言いたい。これからどんどん間に入っていって人間の関係、社会を、世間を変えていき、ひょっとしたら人類に世界平和をもたらすかもしれない技術だと自分は考えています。」

人工知能のことを「○○が苦手」でも「いいところは△△」とまるでツレのように話す陽一郎先生のお話を聞いていると、聞いているこちらも人工知能と知り合いのような気になってきて、そちら側の視点がすぐそこに見えそうな感覚に陥ります。これは陽一郎先生が言うところの「東洋的感覚」なのかな、と思いながらも、この時点ではもうその人工知能の顔まで知っているような気になっていました。

一方、美博先生は、技術というポイントに絞って、磯﨑先生が触れた問題を人工知能が解けない理由を2つ挙げられました。1つは、今の人工知能は「確率をベースにしていること」、もう1つは「意味論に正面から向かえていないこと」。感染症のような、一回性が高く相互作用する自然現象は、人工知能が取り扱う対象としては向いていない。そしてディープラーニングの登場によって処理の精度や正答率が飛躍的に上がったとしても、やはり記号と概念を自分で結びつけることができない人工知能の大きな問題「シンボル・グラウンディング・プロブレム(記号接地問題)」は解決していないため、「なぜそうなるのか」はわからないままであり、数パーセントの確率で失敗するものが生命を取り扱うことはできない。今は第三次AIブームと言われていますが、「十年もしないうちに下火になるでしょう」。

人と人との間に入る力をもちつつも、その意味を考えることはないという人工知能。若松英輔先生は、さらにここで「哲学的意味論だけでは不十分」と切り込み、「私たちの未来を考えていく上で、哲学だけで人間を包括することは難しい。哲学、芸術、文学、そしてここにキリスト教なら神学、仏教なら教学が必要なんじゃないか」と話されました。また、この分科会1でもたくさん「自」と「他」の問題が語られましたが、若松先生は「仏教の言葉には、自我、他我のほかに“無我”がある」と指摘し、「自と他を超えていく立場を私たちはどう考えるのか」と問題を投げかけました。

また、この会では「共創」ということが深く語られてきましたが、若松先生は「未来を共有するということはとても大事なんですけれども、私たちが他者とつながり合えるときは、過去を共有するということがとても大きく働く」と話します。ここで陽一郎先生は、俯瞰的で無我的な視点をもつ人工知能の例としてゲームの世界におけるメタAIやスマートシティを挙げ、「シンボル・グラウンディング問題やフレーム問題を逆手にとった形」と説明しながらその可能性について話しました。 この一連のやり取りを受け、伊藤先生は「AIにとっての時間は我々とは違うのかもしれない」と話します。「人間中心主義的に考えすぎるのもそれはそれでよくない。ここは頭を拡張して考える必要があるのかなと思います。」

●制御という問題

次のご予定が迫る三宅陽一郎先生を見送ったのち、最後に伊藤先生が残りのみなさんに「制御」に関する問題提起をします。「利他の大原則として、他人を制御しようとした途端に利他ではなくなる、という問題があります。工学系の人たちは“制御”をゴールにしがちで、その煩悩の対象が“制御”と言えるくらいですが、私たちは“制御2.0”をどのように考えることができるでしょうか。」

美博先生はここで人間と自然の「間」にある「場」として里山を例に出し、里山のような、一方が他方を制御しようとする場所で起こる現象を「制御ではなく“手入れ”だ」と話した養老孟司さん(医学博士、解剖学者、1937-)の言葉を紹介します。そこで伊藤先生は、人間はいろいろな動物を飼い慣らしてきたと思っているけれども、もっとも飼いならされているのは人類であり、別の種と共存できるよう進化している(『飼いならす』(アリス・ロバーツ著・斉藤隆央訳、明石書店、2020)より)と話し、こうした一方的ではない、作用し合う関係の重要性に触れました。

利他を考える上で「自分が変わっていくこと」は重要なキーワード

伊藤亜紗
中島先生は「手入れ」と「沿うこと」の共通点に触れ、さらにこれは「引き算」とも関わっていると話しながら、土井善晴さんの料理との向き合い方について話しました。「西洋の足し算の料理に対して、東洋の素材を生かす料理では引き算が重要です。土井さんのフライパン上での箸の使い方は、“手入れ”に近いのではないでしょうか。」

引くことで相手のポテンシャルを引き出す

中島岳志
この中島先生の「引き算」のお話を受けて、美博先生は「能動的不在(Active A-Presence)」の例として、江戸時代の弓引き童子のお話──無表情のからくり人形が状況に合わせて観る側に表情を想起させる──を紹介し、「リアルタイムに創出する意味を人間側に残してくれている」と話します。同じ頃に作られた西洋の人形は表情まで動くものがあったそうで、技術的には当時可能だったのに日本で作られたのはあえての無表情。「非完結性は創造のトリガーになる。日本は能動的不在によって創造性を惹起させようという文化の蓄積があります。」

最後に伊藤先生はこのお話を受けて「科学技術は世界共通のものだと思われているけれども、実はとても大きな文化差がある」と話します。「私たちが“利他”を英文で表すときにもaltruismとせず、“rita”にしようとしているのは、さまざまな解があちこちにあるという視点から見えてくることがたくさんある、という思いがあるからです。」

第一日目分科会1が始まる朝、東京は大嵐でした。登壇者のみなさんのzoomのマイクに入り込んだ雷鳴がときおり効果音のように鳴り響くなか、気がつけばそんな音は耳に入らなくなっていました。見る者を巻き込んでうねり続けた壮絶な1時間半強でした。

こうして利他学会議は幕を開けました。この時点でまだ分科会1が終わったところなんて信じられませんが、ここから1時間半後には分科会2が始まります。では、この隙にどうぞお茶でも飲んで次の1時間半に備えてください。