Report

研究会レポート Vol.1
ゲスト:羽生善治(棋士)

2020.05.13

未来の人類研究センターの研究活動の主軸となる研究会、最初のゲストは棋士の羽生善治さん。センターメンバーである磯﨑憲一郎先生からのご紹介で、この日はまず羽生さんからのお話をみんなでうかがったのち、質疑応答を含む雑談へと発展していきました。

羽生善治さんは、1985年に中学生でプロ棋士になり(史上3人目)、1989年に初タイトルである竜王を獲得、1994年に24歳で六冠王になり、その2年後には、史上初の七冠(竜王・名人・王位・王座・棋王・王将・棋聖)を独占という偉業を達成。将棋の好き嫌いにかかわらず、その名は、終盤にくり出す逆転劇を表す「羽生マジック」とともに、広く知れ渡ることとなります。これまでのタイトル獲得数は、名人9期・竜王7期・王位18期・王座24期・棋王13期・王将12期・棋聖16期という合計99期で歴代1位、通算優勝回数は152回。若くしてデビューして以来、将棋の歴史を塗り替え続けてきた羽生さんは、20の駒を使って戦いながら、将棋盤の上にどんな世界を見てきたのでしょうか。そしてそんな棋士の言葉は、「利他」とどう絡んでいくのでしょうか。

羽生さんからのお話

棋士の思考に登場する3つのプロセス:直感・読み・大局観

羽生さんの大先輩であるという原田泰夫棋士(1923-2004)がよく言っておられたという「3手の読み」(自分→相手→自分、という3手のシミュレーションの基本。二手目をどれだけ正確に予想できるかが肝となる)という言葉からもわかるように、将棋は「手を読む」作業のやり取りとも言えます。平均して80通り、序盤は初手で30通り多いときには200〜300の可能性があると言われる可能性のなかから、棋士の方々は2、3の候補手に絞り、そこから最終的に1つの手に決めるわけですが、その思考の過程には、次の3つのプロセスが登場するそうです。
  • ○直感…パッと見た瞬間に何を思うか、感じるか
  • ○読み…先を読む、シミュレーションする
  • ○大局観…大雑把な、抽象的なことを考える
「直感」について羽生さんは、「カメラで写真を撮るときにピントを合わせるような作業」と言います。「過去に自分が経験してきたこと、学んできたこと、習得してきたことと照らし合わせて選んでいる」。そして「読み」はおもにシミュレーション作業だそうですが、直感と読みだけで思考を進めていくと、あっという間に数の爆発という問題にぶつかってしまう。たとえば3手ずつ読んでいくと、10手先はもう6万弱になってしまい、人間がこれをシミュレーションするのは不可能です。ここで頼りになるのが「大局観」で、これは「過去から現在までのプロセスをふり返って総括し、先の方向性・方針・戦略をざっくりと決める」もの。大局観を使って考えると「無駄な考えを省くことができる」そうです。

今、現役で160人ほどいるという棋士の方々はみなさんこの3つを使って考えるそうですが、年齢によってこの3つバランスが異なるとのこと。記憶力や計算する力、反射神経に優れている若い棋士は「読み」を中心に、ある程度年齢や経験を重ねた棋士は「直感」および「大局観」の比重が大きくなる傾向にあるそうです。

長考と選択、そして体調

こうした3つのプロセスを使って膨大な選択肢のなかからたった1つの手を選ぶ作業を、棋士の方々はどのくらいの時間をかけてやるのでしょうか。実際の対局は、朝10時に始まって、夜の12時、1時までかかることもあるそうですが、こういった長い対戦になるときには、1つの局面で1時間、2時間と長く考える「長考」と呼ばれる状態が多く含まれます。しかし「長考に好手なし」という言葉もあるように、長く考えれば良い手を指せるということではないそうで、これについて羽生さんは、長考に至る背景に「心理的・精神的な迷いやためらい」があるからだと言います。羽生さんは最長で一手を指すのに4時間考えたことがあるそうですが、「4時間考えても、5分で選んでも、たぶん選ぶ手は同じだった」。

この「迷い」や「ためらい」を生むものは何なのでしょう。羽生さんは、答えがわからない場面に出くわしたとき、決断できるかできないかを決めるのは、なんと「体調」だと言います。

「今日はこっちに行ってみよう」という
選択ができるときは
調子がいい

羽生善治

 

棋士がその知恵と経験を駆使して、直感・読み・大局観のバランスを取りながら最善の手を選択する、その最後の決断を左右するのが「体調」というのは、とても興味深いですね。さらに羽生さんは、「体調」はコントロールできないものであり、その日にならないとわからない、と話します。何十年という長いスパンで対局をやっていくと、どうしてもムラが生じて体調の悪い日も訪れる。また、「朝起きたら絶好調!」というときは、そこが落ちていくだけなのでとても危険だそうで、最終的には「気にしすぎないことも大事」だとのことです。

そして話は、「体調」とは無縁の、人類最大の対戦相手となった、AIの登場へと続きます。

データ分析とAIの登場

羽生さんがプロになった約30年前は、「将棋は力と力の勝負で、未知な場面で初めて真価が問われる」という時代。データ分析をするのは自信のなさの表れとみなされるような風潮があったそうです。しかし今は、もちろん未知の場面に出会うことは変わらなくあるそうですが、将棋が今のルールになってからの約400年の知識的な体系の積み重ねをきっちり分析して携えておかなければ、未知の場面に出くわす前に差をつけられて勝負がついてしまう。対局の日の朝の数時間も、昔のように近況を語り合ったりする時間はなくなり、その時間を研究にあてなければならないので、今は最初から神経を集中させておかなければならないそうです。

そういった状況の変化に大きく拍車をかけたのは、やはりAIのようです。IBMが開発したチェス専用ソフトの「ディープ・ブルー」が世界チャンピオンを打ち破ったのを皮切りに、「アルファ碁」、そして「アルファゼロ」と、この20年強の間に、チェス・囲碁・将棋界でのAIの台頭は世界に衝撃を与えました。こういったソフトで使われているAIは、時代を追うごとにさらなる進化を遂げており、過去に人間が指した膨大な量のデータを瞬時に計算していくというデータ+ハードウェアの力が基本であった「ディープ・ブルー」の時代から、データベースという人間のお手本をもとに判断基準を機械学習して強くなっていく「アルファ碁」、そして「アルファゼロ」では自己学習のルールだけをインプットした状態でスタートし、数時間でそれまで最強と言われたソフトを負かしてしまう、という快挙をやってみせました。1秒に2億局面を計算したり、機械学習で3,000万局の自己対戦を行ったりするAIに、一生涯で経験できる対戦がおよそ10万局と言われる人間は、到底太刀打ちできないように思えてきます。

しかし、冒頭にあった棋士の思考プロセスのお話でも出てきたように、将棋で最も重要なのは、最善の一手を選択すること、すなわち「判断する」という力なのです。羽生さん曰く、この「判断する」基準は単一でなく、「守りは堅いほうがいいのか、厚みを築いているほうがいいのか、進展性があるほうがいいのか、スピードがあるほうがいいのか、というさまざまな判断基準を状況に合わせて考えていく」。そして最終的にこの正しい「判断」を引き出すためには、何十通りという選択肢をそれぞれ正しく「評価する」ことが重要だそうで、ここにAIと人間の大きな差異が出てきます。

評価値と恐怖心

AIは、1つ1つの手を選択するとき、点数で表される「評価値」を基準に選びます。その評価値を決めるためのパラメータは1万にも及ぶらしいのですが、そうやって算出された「評価値」については、とにかく点数が高いものを選ぶ。一方で、人間がそういった「評価値」を出すためのパラメータとしているものは10個ほどであり、その上、時系列でつじつまが合っているものを好む傾向や、王将を取られたくない恐怖心から、どうしても「評価値」の結果をカーブさせる別の要素が入ってしまう。そんな人間からすると、単なる評価値の高い低いのみで下されるAIの選択は「バラバラに見える、一貫性がないように見える」そうで、羽生さん曰く「何を考えているかまったくわからない」。

羽生さんはこうしたAIの特徴について、「一貫性がないというところに、強さもあるし、違和感もある。ただ、発想や思考の幅を広げるという意味では、非常に有効なのかな」と話します。また、このAIの評価値には±200点ほどの「揺らぎ」があるそうで、そこを見極めるというのが人間の作業になる、とした上で、今の時代に人間の棋士にしかできないこととして、以下の2つの点を挙げました。

面白い将棋と創造性

「量では絶対にかなわないわけです。何千万局とかできるわけですから。人間の人生の有限な時間と比較すると、量としては完全に凌駕されてしまっている。そこではなく、見ている人が面白い、楽しいと感じるとか、感動があるとか、そういうものを作れるかどうか。」羽生さんはAIがいる世界における人間の棋士の価値として、まず「見ている人が楽しめる対局をする」という点を挙げました。

そしてもう1点は「創造性」。「コンピュータにはコンピュータにしかできない創造っていうのも間違いなくある」と羽生さんは言います。コンピュータは膨大な量のシミュレーションをすることができるので、「人間が絶対にここの鉱脈は探さない」という場所を見つけ出すこともある。では、人間にしかできない「創造」とはいったい何なのかというと、これは羽生さんによると「評価値が低いものの先」を探ること。コンピュータは、−300点、−400点といった低い評価値の手は選ばないので、その先を考えることはありません。しかし人間は「その十五手先とか二十手先とか、そういう局面になったときに初めてプラスに転じるような、そういう局面をひたすら頑張って掘り下げていくところがある」。羽生さんは、ここに「人間的な創造が潜んでいるのではないかな」と話しました。

AIが参入する前、あるいはデータ分析が必須になるもっと前の時代の棋士たちは、「独創的な創造ができた」と羽生さんは言います。その頃は、自らが考える手の先に何かあるかもしれないと信じて、研究、分析し続けることができたのだけれども、今は目の前に評価値をすぐに調べてしまえる機械がある。そして調べてみて低い評価値が出ると、そこで心が折れてしまって先には進めなくなる。「そこを乗り越えて、新しいものを生み出せるかどうか」を、今の、そしてこれからの棋士たちは問われているのではないか、と羽生さんは結びました。

AIには、
人間が持っているポテンシャルを
発揮させるツールとしての
可能性もある

羽生善治

 

質疑応答+雑談

磯﨑憲一郎先生

羽生さんのお話が終わったのち、質疑応答に進む皮切りとして、羽生さんと旧知の仲であるという磯﨑先生と羽生さんのやり取りが始まりました。最初に磯﨑先生はAIと小説の関係に触れ、「現状のAI小説は八割方人間の手が加わったものだそうだが、私としては寧ろ、早くAIに小説が書けるようになってもらいたい」と言います。その理由は、「AIが小説を書けるようになることによって、本当に人間にしか書けない小説が浮かび上がってくる」から。「AIには書けない小説だけに人間が集中できるという環境が、早く整ってほしい。」

これを受けて羽生さんは、NHKの番組取材で出会った、似顔絵を描くAIの開発者の方が言ったという「僕は、詩を書くAIは作らない」という言葉を紹介します。たとえば、桜の季節にAIが季語を使ってそれらしい俳句を読んでもしょうがない。「技術的にはできるんだけど、本質的にやる意味があるのかどうか、が問われている。」

人間にしか書けない小説とはどんなものか、なぜAIが詩を書いてもしょうがないのか。そこから話は「暗黙知」へと進みます。「説明できるけど説明できない、言語化できない、数値化できないもの」である暗黙知、羽生さんの言葉を借りると、「同じレシピでも作る人によって味が変わってしまう」という差異に潜んでいるような、そういった暗黙知について、「AIと言えども、なかなかここにたどり着くのは難しいのかな」と話します。磯﨑先生はこれを、人間が判断をするときに従う「なんとなく」の部分、そしてAIが勝負に負けるとき、または評価値の揺らぎなどに表れる「何か」と称し、ここになにかすごく大事なものがあるような気がしてならない、と話しました。

伊藤亜紗先生

伊藤先生が羽生さんのお話から切り取ったのは、「体調」と「つじつま」のお話でした。人間の身体の研究をされている伊藤先生は、体調について「障害の問題を社会的に解決しようとして、どんなに制度が整っても、やっぱり毎日違うんです、身体って」。と話します。それは面白い一方で、苦しい原因にもなる。どういう法則がそこにあるのかわからず、その法則を探せば探すほど、コントロールしようという方向に向かってしまい、その反作用でよくないことが起こる。伊藤先生にとってはとても興味深く、ままならないものである「体調」が、羽生さんの対戦の上での決断を左右するもっとも大きな要因となっているということは、とても大きなポイントでした。

そしてもう1点は、「人間は時系列で物事を考えていくので、時系列でつじつまが合っている手や選択を好むところがある」がゆえに、AIが一手ずつ高い評価値のものを選ぶというのが「バラバラに見える」というお話。伊藤先生は、このAIの状態を、認知症になると「話が飛ぶ」ように見える点に重ねて、これは「人間が“この辺が人間”って思ってる領域の外部があって、そっちに行っている状態なのかもしれない」と話します。だからこそ、健常者からすると「えっ」と違和感を持つことがあるけれども、そこには別の人間関係や社会常識をつくるきっかけがあるんじゃないか、と話しました。

中島岳志先生

中島先生は、囲碁のプロ棋士になるべく子どもの頃から訓練していたという衝撃の事実をサラリとお話されてから、AIがものすごく強くなったときに、「懐かしさ」を覚えた、と言います。それは、中島先生が当時好きでよく並べていたという「江戸時代の碁」を含む、忘れ去られていたような昔の打ち方とAIの手が類似していたことで、この「江戸時代の碁」は、「盤の上に一手を打つことに、ある種の宇宙との呼応があり、宗教観の表れとして存在してきた」、と中島先生は話します。それが近代囲碁になって合理性が重視される度合いが高まるにつれ、「その感覚が忘れられてしまった」。そこでAIは、この江戸時代の碁が持っていた「宇宙観」と、近代の「合理性」の極北みたいなものを同時に抱えて登場したというところが、世界にとってとても新鮮であり、中島先生は非常に面白みを感じた、と話しました。

若松英輔先生

お兄さんと一緒に小さいころから将棋を見ていたという若松先生は、勝ち負けよりも、指している「人」を見ていた、と言います。竜王戦だけ強い人、負けていく人、亡くなっていく人など、そういう人たちが作るものが将棋の歴史であったという若松先生にとっては、“負ける”ということが必要であり、また「勝っていた人間だけが負けることができる」。「うまくいかないことが、我々をつなぎとめたり、動かしたり、あるいは創造的にしたりする」と話す若松先生は、勝者しか残らない将棋界は、学びの方法が変わっていくのではないか、と疑問を投げかけます。

これを受けて羽生さんは、人間の将棋とソフトの将棋は何が違うのかを考えてみると、それは「ドラマチックかどうか」かもしれない、と話します。「本当は、プロであったら、いい手を指すとか、すごい手を指すとか、そういうことが大事なのかもしれないんですけど、意外とミスしたり失敗したりっていうところも、そういうことも含めたところなのかな、と思うようにはなりました。」

もしかしたら、
私たちがたくさん学ぶのは、
敗者のほうからかもしれない

若松英輔

 

そして、羽生さんはこの後、「人間が流れに囚われがちであるというのは、プラスになりうる要素か、邪魔な、切り捨てるべき要素か」との質問に対して、次のように答えます。

「人間が時系列で考えるのは、思考を省略するためにそうしてるんじゃないかな、と思っています。そして、将棋の世界では、“強くなる”とか“上達する”ということは、美意識と関係がある。これはいい形だ、これはダメな形だ、というのをたくさん蓄積することで、自然にいい手が選べるようになる、というのは、人間的な美意識と密接に関係していると思います。そして、美意識とは何かというと、これは時系列と深い関わりがあって、AIにはこれがない。そして人間の美意識も、AIに影響を受けて少しずつ変わっていくのかもしれない。」

ここで伊藤先生は、人間が美意識や時系列と深く関わっているのは、「人間が物質だから」かもしれない、と言います。「物質には勢いとか流れとかがあって、それに任せて進んでいきますよね。でも情報やバーチャルな世界は、経緯と関係なくその局面だけで動くんじゃないかな。」

正しい手とそうでないもの、相手の話

質疑応答も後半戦に差しかかり、後半でいちばんの盛り上がりを見たのは、「正しい手」についてだったのではないでしょうか。AIの登場以降、「見ている人が面白いかどうか」を考えることが以前より増えた、という羽生さんですが、それに伴って、「正しい手とそうでないもの」にまつわる考察を話してくれました。

「正しい手を選んでいこうとすると、どんどん収斂されていって確率的になってしまうので、そうではなくて逆にどこまで大胆な手、リスクのある手、今までになかった新機軸の手をやるのかは、結構考えるところではあります。」

しかし、あんまり大胆なことをやっていると簡単に負けてしまうという、シビアな勝負の世界でのこの判断は、相当悩ましいものであることは想像にかたくありません。それでも、「自分の知識だけで完結した」、「何の発展も収穫もなかった」という対局だった日は、勝敗にかかわらずガッカリするという羽生さん。「その日の対局で勝った、負けたよりも、今まで自分が考えたことのなかったような一手を指せたことのほうが、最近は喜びが湧くんですよね。」

ただ、将棋は2人で指すものであり、相手があることなので、やはりその「相手」もこの問題には大きく関わってきます。ここで中島先生は、「仏教には対機説法というものがあって、仏教の教義を一方的に相手に説くよりも、相手から来たものにどう反応するか、によって何かが生まれる」という話を投げかけます。そこで羽生さんは、「考え方が似ている人とか、読みが合う人と指しても、あんまり面白くない」と言います。「こっちが予想した手が全然当たらない、っていう人のほうが、内容的には面白いことになると思いますよ。そこはやはり、対局する、ということならではの要素かな。」

さらにここで、若松先生が詩を書く場合の「相手」とのやりとりの話をします。「詩を書く意味は、美しい言葉を残したい、ということじゃないんですよね。書くことによって、書きえないものを自分でより深められるから、なんです」と話し、将棋にもそういうところがあるんじゃないか、と問いかけます。それに対して羽生さんは、こう答えます。

「読んでる量って、実際に指す手の何十倍で、そっちの捨ててるほう、指さなかったほうが圧倒的に多い。そこから相手の人が何を考えたかが見えてくるところがあります。つまり、選んだ手じゃなくて、なぜほかの手を選ばなかったか、ということを考えると、『こういう心境だったのか』ということが見えてくる。」


羽生さんは、時折笑顔を見せてくれつつも、基本的には眼光鋭いまま、少しもトーンが変わることなく、淡々と、すっきりした表情で棋士という人生とその頭の中について語ってくれました。将棋界に激震を走らせたAIの登場に対しても、羽生さんはそれを拒絶するでもそれに飲み込まれるでもなく、この会場に入ってきて話し始めたときと同じような清々しい顔つきで、その付き合い方を心眼で捉えて共存していこうとしているように感じました。このセンターで「利他」が語られるとき、それは「偶然」「当たり前」「不図」「ままならない」といったキーワードとともに語られることが多いのですが、羽生さんが将棋と対峙する姿勢は、まさにこういったキーワードが当てはまるような気がします。この研究会が始まったとき、利他とどうつながるのかな?と思いながら話を聞いていましたが、ふと気がつくと、会場の人々の話す言葉は、いつの間にか「利他」の器に載っていたのかもしれません。

 

おまけ
「これ、負けるかもしれないけど、この手、指したい」 羽生善治


(目撃と文・中原由貴)