Report

プレ研究会レポート Vol.1
第1回未来の人類研究センター
会議&研究会

2020.02.01

2020年2月発足の「未来の人類研究センター」第一期メンバー5名が集結した第一回会議&研究会。センター長伊藤亜紗准教授、中島岳志教授、若松英輔教授、國分功一郎教授、磯﨑憲一郎教授、という順序でみなさんゆっくり集まり、全員が一同に会した瞬間から魂のこもった雑談が始まります。この会の終盤には、メンバーの先生方は意識的に「雑談」から出てくるものをとても大切にしているということがわかってきますが、思い返すと最初からとても重要な雑談がくり広げられていました。

そしてまずは進行予定に沿ってセンターの成り立ちや構成についての確認が行われ、今後の研究方法や発信手段などについて意見が交わされたのち、利他プロジェクトリーダーである中島教授から「利他学」に関するお話がありました。

中島岳志教授による「利他学」

昨今、日本で蔓延する「自己責任論」や「生産性」重視の風潮、理想的な福祉国家と言われたスウェーデンで難民受け入れを機に生まれた排他的ナショナリズム、さらに税や寄付といった社会的再配分の動機づけが困難であることなど、現代社会が抱える問題が丁寧に示されたのち、こうした問題に取り組むにあたって大きなポイントとなるかもしれない「利他」という視点について、中島先生の見解が少しずつ語られ始めます。そこで紹介された中島先生ご自身のインドでの体験談がこちら。

インドで大荷物を持って階段を上っていると、
ある男性が一緒に荷物を持ってくれた。本当にとても助かって
ありがたかったので「ありがとうございます」と何度も言っていると、
その男性は憮然として去っていった。

中島岳志
もちろん中島先生はこのとき、インドの言葉で「ありがとうございます」を連発しました。インドで最も多くの人々に話されているヒンディー語では、実は「ありがとう」に当たる言葉が近代まではっきりせず、「ダンネワード(ありがとうの意)」という言葉は、古代のサンスクリット語から借用されたものでした。「ダンネワード」が堅苦しく改まった印象を与えることは想像に難くありません。中島先生は「慇懃無礼だったのかな」と当初は思ったそうですが、しかし、何か腑に落ちないものが残ったと言います。なぜ中島先生は憮然とされてしまったのか。のちに「そういうことか」と思う一節に出会うことになります。

セイウチ猟がうまくいかず帰ってきたとき、
猟に成功したエスキモーの狩人から肉をもらった。
フロイヘンがいくども礼を言うと、男は憮然として言った。
「この国では、われわれは人間である」「そして人間だから、
われわれは助け合うのだ。それに対して礼をいわれるのは好まない」

ピーター・フロイヘン『エスキモーの本』(1934年)

 

人にモノをもらったり何かをしてもらったりして、「ありがとう」と感謝の気持ちを表すことは、負債を意識することでもあります。こうして貸借関係が生まれると、それは奴隷をつくるということにもつながるのですね。支配-被支配の関係が生まれてくる。中島先生を助けたインドの男性や肉を分けたエスキモーの狩人が憮然とした理由は、この辺にあるのかもしれません。
ヒンドゥー教では「ダルマを果たす」という概念があり、自分に与えられた役割を果たすことによって、世界全体と有機的に繋がっているという宗教的感覚が息づいていると言います。インドの男性は「自分はダルマに従って当たり前のことをやっただけだ」という感覚があったのだろう、と中島先生は推察します。
ここで話はマリノフスキーが『西太平洋の遠洋航海者』で論じたクラ交易へと移ります。クラ交易とは、「赤い貝の首飾り(ソウラヴァ)」と「白い貝の腕輪(ムワリ)」を島々の間で交換し続けるというもの。この実用性のない「象徴」を、命懸けの航海を経て、生涯に渡って交換し続けるのです。さらにこの話はマオリ社会におけるモノに宿る精霊「ハウ」へ。

「ハウは特定の人や集団に留まりつづけることを望まない」

「物を所有し続けようとする人に災いをもたらす」

「物は贈与されることを欲する」

マルセル・モース『贈与論』(1925年)
クラ交易でも、ソウラヴァやムワリを所有している期間が年単位に及ぶと、「あいつは強欲だ」「モノに執着していて最悪だ」などと次第に悪口を言われ始めるそうですが、なぜモノを持ち続ける姿が醜悪に映るのかを突き詰めていくと、モノ自身がひとところに留まり続けることを望まず、贈与されていくことを欲するから、という話にまで行き当たるようです。これはもう人間の意識や意思からは遠く離れた話になってきますね。

さて、こうした話は、「利他的存在としての私」という最終章へと流れ込んでいきます。ここで中島先生は以下の1つの例を出しました。日本語で「私はあなたを愛しています」、英語では“I love you”、いずれも主体は「私(I)」で、対象としての「あなた(you)」に向かって意志が動いている様子を表している表現です。ではヒンドゥー語ではどんな表現になるかというと・・・
「愛が私のもとへ来てとどまっている」
これは「愛」を取り扱う場合に限らず、「風邪が私のもとへ来てとどまっている」(→風邪をひいている)といった風にも使われる一般的な表現方法だそうです。この表現における「私」は文法的に「与格」と呼ばれるもので、行為の主体ではありません。

ある国や地域で話される言葉や文法、特異な表現には、その場所で暮らす人々ならではの特徴が表れるものですが、このヒンディー語の与格構文にも、この文化圏の人々の独特な人間観が表れていますね。つまり、こういうことです。
「自分は器で、何かを媒介するもの。
私という存在自体が贈与されたもの」

中島岳志
「インド人は与格を使う時、意思の外部を想起します。器としての私に“愛”などがやってきて留まるのですが、その“愛”はどこからやってくるのか? それは“神”や“超越”といった、此岸的世界の外部です。私の“いのち”は、彼方から贈与されたもの。私が“いのち”を生きているのではなく、“いのち”が私を生きている。この感覚は、多くの宗教に共通するものではないか」と中島先生は言います。

第一回会議&研究会に参加するにあたり、「利他」とは何かがついにわかる、と期待して行った私は、その目論見を打ち砕かれた上に脳をかき混ぜられて帰ってくることとなりました。おそらくそれが多少なりとも明らかなるのは5年後であり、そのために引き出しに入っているものを1つずつ手に取ってみんなでいろんな角度から見る作業、それが研究会だということがよくわかった第一回研究会でした。そのやり方について、既存の溝にハマり込んでつまらない結果を呼び寄せてしまうことのないよう、先生方は細心の注意を払っているように感じます。細かな気づきを大切にしつつも広い視野を失わず、予測はせずに準備をし、その都度発生する雑談を重視する、これが未来の人類研究センター流なのだな。研究会の終盤には、こんな言葉も飛び出していました。

「面白いことをやっていれば利他につながる。
“まとも”なことはすべて利他」

中島岳志
おまけ
「win-winとお互い様はぜんぜん違う」 若松英輔


(目撃と文・中原由貴)