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モノと見立ての想像力 北村匡平

2023.07.31
 ある朝、5歳の息子を保育園に送っていた。空に大きな入道雲が広がっているのに気がついて、僕はすぐに雲を指差して見てごらんと伝えた。すると「うわぁ〜ボク雲が食べたいんだよなぁ〜」と想像もしていなかった応答が返ってきた。「いやいやいや、雲は食べられません!」と笑いながら僕が諭すと、息子は「でもさ、タータンは虹の上を歩いていって雲をモグモグ食べるんだよ。すっごく美味しそうなんだぁ〜!」と嬉しそうに話した。タータンとはキヨノサチコ作・絵の人気の絵本『ノンタン』シリーズに出てくるノンタンの妹、後で確認したら『ノンタン ふわふわタータン』で、たしかに虹を散歩したタータンが雲のわたあめを食べている場面がある。僕が同じくらいの年齢のとき、こういう感性をもっていただろうか、などと考えながら、ものすごくつまらない現実的な返しをしてしまったと妙に反省して1日を過ごしたのだった。
 少し前に森の中で自然に囲まれて育児をする幼稚園で、子供の遊びについて話をうかがったことがある。先生によると、暴風雨で倒れた木の枝を子供たちが「ジャングルジム」に見立てて登ったり降りたりして遊んでいたという。あるいは倒木が橋になって向こう側へ渡れるようになり、「綱渡り」の遊びが生まれたとも教えてもらった。そこの園児たちは、森の中の道にもなっていない急な斜面を「すべりだい」ということにして滑り降りて遊んでいた。その映像を見せてもらって本当にただの斜面を次々に滑っていく園児たちの姿に驚きを禁じ得なかった。ぼくの子供などは手に泥が少しでもつこうものならすぐさまウェットティッシュを要求してくる始末、日々の育児に反省することしきりだ。
 森の中で生活する子供たちは常に大地や木々などの自然に触れ、生き物の存在を感じて過ごしている。こちらの都合で自然を飼い慣らすのではなく、自然のほうに人間をフィットさせる。豪雨、炎天下、強風、自然の脅威に翻弄され、身体のほうを自然に適応させるしかないこの幼稚園では、共生を理念だけではなく実践している。雲を美味しそうな食べ物と想像すること。倒木の枝や山の急な斜面を遊具にして遊ぶこと。思い返してみれば、子供の頃は何かを見ても果てしなく連想が続いていったし、自/他のみならず、モノとモノの境界ももっと曖昧だったように思う。
 色々な児童公園にフィールドワークに行っていると、近年の複合遊具の豪華さに圧倒される。僕が小さい頃はシンプルなものしかなかったから、壮観な遊具に出会うとワクワクして、大人でも一緒に遊んでみたいと思う。だから年齢制限がない遊具は子供と一緒に必ず遊んでみる。ところが、たいてい豪華で立派な複合遊具は、きわめて安全で機能的に作られているし、想像した以上の喜びや驚きを味わうことが少ない。人とぶつからないような見通しのよさや、危険を回避するようなつくりになっている。その先に何があってどうなるか想像できる。安全に遊べることはもちろん素晴らしいことだ。だが、その一方でどこか「遊ばされている」という印象を受けることがある。モノの機能に従属して遊んでいるといえばいいだろうか。どうも予想外の遊びが展開していかないし、想像力が発揮されている感じがしない。ただモノが欲望するまま身体が「動かされている」といった感じだ。
 そういった印象をあまり受けないものにタコ遊具がある。以前、未来の人類研究センターのメンバーで撮影のために辰巳の森緑道公園に行った(昨年書いたリレーエッセイでも紹介している)。そこにあるタコ遊具は、さまざまな傾斜の細い滑り台が四方へと広がり、登ったり降りたりできる。複数の蛇行するトンネルもあり、向こう側から誰が来るか予測できない。洞窟のような穴の中で親の目を盗んで遊ぶ子供たち、追いかけっこで一気に駆け抜けてゆく子供たち、滞留して群れて他のグループと交流を始める子供たち。遊び方が決まっているわけではないし、視界が閉ざされている形状になっているから、思いがけない遭遇や驚きが生まれる。しばしば大型の複合遊具に見られる定められたルートや遊びの規則性があまり見出せない。その都度、動きも遊びも多様で、誰一人として同じ遊び方をしていない。このタコ遊具に、遊具としてのポテンシャルの高さをひしひしと感じたことを覚えている
 インクルーシブ遊具が近年日本でもかなり増えてきた。さまざまな事情を抱えた子供たちを分け隔てなく包摂できるようデザインされており、年が離れていても障害を抱えていても安全に楽しく遊ぶことができるものが多い。欧米諸国では設置が義務付けられているところもあり、こういった取り組みはかなり進んでいる。工夫を凝らした設計で、インクルーシブ遊具のアイデアには感心させられる。とはいえ、これらはつねに設計者が意図したように遊ばれているわけではなさそうだ。ある公園では車椅子の子供でも遊べるように砂場の淵に大人の腰くらいの高さの小さな砂場がもう一つ設置されていた。その遊び場は設計者の意図から離れ、柔らかい地面の砂場を目掛けて上の台に登っては飛び降りるというスリリングなジャンプ台、あるいはお風呂場と化していた——あまり褒められたものではないが——。子供は大人が考えるほどいつも「正しい」使い方をしているわけではなく、そのモノの形と個別の対話=コミュニケーションをしている。
 その対話が活発な遊具には「余白」があるといってもいいかもしれない。「余白」のない遊具も当然たくさんある。子供の動きを完全に規定するようにデザインされた遊具には余白がなく、多様な遊びは生まれにくい。そういった遊具では子供が遊びの想像力を発揮できず、ただモノに「遊ばれる」ように運動するほかない。だが、余白のある遊具と戯れると、子供の想像力はつねにテクスト(遊具)の転覆をはかる契機がある。モノの機能が子供の遊びを支配するのではなく、遊びの想像力を触発すること。Aに余白がなければ、AをBに置き換える人間の「見立て」の想像力は働かないかもしれない。余白のあるモノと「見立て」の想像力が出会うとき、遊びは次々と展開し、その場の子供たちを巻き込んでゆく。そんな奇跡的な遊びが生まれる現場を、僕は何度か目撃した。どういった条件がそろえば、そのような遊びが生まれるのか、これからもフィールドワークを通じて探究していきたいと思う。