Report

第15回 暮らしの利他——公共圏におけるモノと身体 北村匡平

2022.03.11

山崎太郎さま、木内久美子さま

言語=意味の解体

 新型コロナウイルスのパンデミックで日常が大きく変わってから2年が経過し、いまだにその猛威は収まることなく、3年目に突入してしまいました。そうこうしているうちにロシアのウクライナ侵攻で世界はさらなる脅威にさらされています。SNSを通じて日々、凄惨な映像が届けられる、そんな状況の中でこのエッセイを書いていることを、忘れないように記しておきます。
 山崎さんのお話は、酒造りの営みにおける麹菌へのケアと、母胎に蠢く胎児への母なるものの感応を接続させ、人間/自然の関係や生/死の両犠的な在りようを見出してゆく、一個の身体を飛び出して生命をめぐる壮大な旅をしたような心地になりました。木内さんのエッセイは、母の絵本の朗読に巻き込まれて「笑い」を生み出していった出来事を詳細に記述しながら、「利他的なもの」がどのように生成したのかを分析的に解きほぐしていくもので、まるでベケットの意味不明な戯曲を木内さんが現れて分析しているかのような感覚に包まれました。意味の次元とは異なる身体が朗読のリズムにチューニングされる出来事が可笑しくて、心温まるエピソードですね。
 製麹/妊娠や朗読というまったく異なる対象を考察しながら、お二人のエッセイには通奏低音となっているものがあるように思えます。それは「言語」へのアプローチです。山崎さんのエッセイでは普遍的言語で表徴される前の母子融合の時間へと耳を傾け、木内さんのエッセイでは朗読の独特なリズムによって意味よりも身体が音に同期していく様相を捉えています。言語=意味の解体といえばいいでしょうか。僕が第9回に濱口竜介監督の映画について書いた「非言語的コミュニケーション」とも響き合うように思います。「利他」を考える上で、言語(精神分析でいうところの「象徴界」)の捉え直しは不可欠であると、これまでのやり取りを通じて痛感しました。

 さて、冒頭に戻れば、当たり前だった日常が崩壊して生活様式が変質すると、僕たちの外部へと向かう意識がこうも変わるのか、と改めて強く思うようになりました。コロナ禍になった当初からいわれていましたが、やはり身体感覚がかつてとは決定的に違います。他者と引き離された一方で、より他者の存在を意識するようになったと思います。他者との距離感に敏感になり、身体的コミュニケーションが繊細になりました。対象は人だけでなく、身体と外部環境の関係性も変わりました(子供たちを見ていても何かに触れる時の感覚が「触ってもいいのかな」「触っちゃった」という意識になり、モノへの触り方にも変化が見られます)。コロナ以前、他者はある意味もっと「透明」なものでした。それがコロナ状況下では、物質的な身体を伴う存在として強く意識されるようになりました。と同時に、僕たちを取り巻くモノへの意識も(いい意味で)研ぎ澄まされてきているように思うのです。
 コロナ社会にあって、以前よりも頻繁に行くようになった公園や、普段何気なく通過している街、仕事で立ち寄る喫茶店が、まったく異なる空間として僕たちの前に立ち現れてきました。もっとも、これらの場所にあるモノ自体が変化しているわけではありません。外部世界に対する感度が変わったのは僕たちのほうです。公園の遊具、街の環境設計、店の空間デザイン——こういったモノと人がどのように関係を取り持つのか、モノと身体のネットワークがいかに生成しているのか、ということに次第に興味を持つようになりました。リレーエッセイも最後となる今回は、日常生活の中に見られる「暮らしの利他」について、書いてみたいと思います。

排他的な環境

 ファストフードの徹底した合理化・効率化による生産/消費を現代社会の象徴として分析したジョージ・リッツァの『マクドナルド化する社会』が1999年に邦訳され、翌年にはサイバースペースにおけるコードの規則を論じたローレンス・レッシグの『CODE』が翻訳されました。これを踏まえて日本でも「アーキテクチャ」の権力論が盛んに議論されることになります。例として頻繁に取り上げられたのが、マクドナルドの「硬い椅子」でした。個人的にも日々、家の近くにあったチェーン店のカフェにある「硬い椅子」と「寒い冷房」という「環境」に、短時間で店を出るよう促されていました。学生時代、安いからという理由で頻繁に行っていたのですが、当時のこうしたチェーン店では、効率よく利潤を生み出すために設計された「環境」を身体的に経験したのです。
 利用者の回転率を高めるために(強制的にではなく)自分の意志で席を立って出ていくように「環境」によって身体を管理すること。ミシェル・フーコーがパノプティコン(一望監視施設)を用いて近代を成り立たせる権力の様式を論じた「規律訓練」に、ジル・ドゥルーズは「環境型」の新たな形式を対置しましたが、これを受けて東浩紀さんは「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」という現代的な統治の形態の変遷を描きました[1]。前者が規律(眼差し)の内面化を前提としているのに対して、後者は法や規範ではなく、環境(アーキテクチャ)によって人間をコントロールします。重要なのは、環境による管理では、もはや人間の理性は信用されていないということです。
 公共の場に防犯カメラが設置されていく「監視社会」に対して、2000年代にリベラルを中心にかなり反発があったと記憶しています。2002年に出版されたデイヴィッド・ライアンの『監視社会』(河村一郎訳、青土社)も読まれました。ところが今では防犯カメラに対する抵抗はすっかり弱まり(もちろん電車や街、住宅によって差はありますが)、監視社会は犯罪の「抑止」や社会の「安全」のために常態化した空気さえあります。車でシートベルトの締め忘れを知らせるかつての「警告灯」では効果が弱いため、今では不快な「警告音」で知らせる車がほとんどです。公共秩序を保つための環境管理は2010年代にますます過剰になりました。ホームレスの人たちが寝られないようにデザインされた公園のベンチは「環境管理型権力」の最たる例でしょう。
 このようなアーキテクチャによって「環境管理」する公園のベンチやカフェの椅子は、人を制御・排除するモノとして存在しています。自発的な意志に基づく行動と思わせつつ、物理的な空間の布置やモノの形態が、身体に直接的に働きかけることによって社会を成り立たせようとする新たな権力の様式。こうしたモノと人の間に〈利他〉が生成する契機は見出せそうにありません。社会の環境管理化が進めば、抑圧的な権力や排除の論理が人間をますます疎外し、〈利他〉が発動する条件は限りなく縮減していく危機感があります。とはいえ、家を出て少し街を歩いてみれば、僕たちの身体=存在を受け容れようとする〈利他〉なるモノは、思いのほか発見できます。ここでいう〈利他〉なるモノとは、たとえばレジ前にある荷物置きやトイレ横にある傘掛けといった「便利なモノ」を意味してはいません。環境によって管理される社会を生き抜くヒントが、僕たちの身の回りにもあるのではないか。先にコロナ状況下では身体を伴う存在として他者が強く意識されるようになり、僕たちを取り巻くモノへの意識も研ぎ澄まされてきているように思う、と記しました。社会に対して敏感な今だからこそ、人を受け容れようとする環境へと僕たちは感度を高めて、身体をひらいていけるのではないかと思うのです。

暮らしの中の〈利他〉

 家を出て駅へと続く遊歩道を歩いてみます。すると、普段は気にも留めなかったさまざまなモノがあります。たとえば、歩道脇に置かれた石の丸椅子【図1】。この場所は駅からかなり長く続く遊歩道の途中にあり、シニア世代の人たちが疲れて一休みしたり、重い荷物を置いたり、時に座って飲食をしている人もいます。あるいは、小さい子供をいったん休息させたり、子供たちの遊び場になったりすることもある。実に求められるさまざまな用途のために「変貌」して人との関係を取り結びます。

図1 石の丸椅子(二子玉川)[筆者撮影]
 それから個人的にはこの二つの丸椅子の距離感が絶妙だと思っています。一般的な長方形のベンチが一つ置かれているとします。もちろん、人それぞれ感覚は違いますが、隣にスペースはあっても、誰かが座ればなかなか他人は座りづらい。実際にこうした画一的な公園のベンチは、いかに先に取るかを競わせるように人を動かすことさえある。2〜3人が座れるベンチでも誰かが取ると残りのスペースは使用されることなく、排他的に機能することもあります。上の丸椅子は、一方に誰かが座っていても、隣の椅子と近すぎず、通常のベンチよりも人を受け容れてくれる距離感があると感じます。他方で、遠すぎない距離感がコミュニケーションの契機を温存しているようにも思います(実際、何度かここに座った人たちが話している光景をみたことがあります)。

図2 辰巳の森緑道公園のベンチ[筆者撮影]
 先日、未来の人類研究センターに2022年度から加わるメンバーを含めて撮影のために辰巳の森緑道公園に行きましたが、この入り口にあるベンチも興味深い形をしていました【図2】。複数の人が腰掛けるのに、他人との距離は近いけれども、座る向きが四方八方にひらかれており、他者の存在を身近に感じつつも、それほど不快ではない座り方になる。ここでも何かをきっかけにしてコミュニケーションが生まれる距離は担保されているように思います。一般的なベンチが時折、排他性/独占性を働かせることがあるのに対して、このようなモノの形態には利他性/共有性の契機が見出せます。
 また、この公園は日本最大級のタコ遊具があることで有名です。この巨大なタコ遊具は非常に独特な形状と空間を持っていて、細い滑り台が四方にランダムに設置され【図3】、真正面と反対側に下部が幅広い滑り台があります【図4】。通常の滑り台では、逆走して下から登ることはマナー違反となりますが、実際のところ子供ってただ階段を登って滑る規則的な遊び方を嫌って、よく下から走って駆け上がりたがりますよね……。しばらく子供たちの遊具との関わり方を観察してみました。ここは行動を抑制するような雰囲気はまったくなく、下から斜面を駆け上がったり、滑り台や通路が複数あるため衝突を回避するルートがあったり、一方通行で競争・喧嘩を引き起こす遊具とは異なる形態が、子供の快適な遊びの動きを形づくっているように見えました。定められたルールを逸脱することに喜びを感じる子供は多く、この遊具は、そういった子供たちに奉仕するデザインになっているのです。それからこの遊具のもう一つの特徴は、洞窟のような穴が貫通していて、上部にも子供たちが群れる滞留スペースがある点です。これらの空間が遊んでいる子供同士を交流させるようにうまく機能しています。

図3 辰巳の森緑道公園のタコ遊具①[筆者撮影]

図4 辰巳の森緑道公園のタコ遊具②[筆者撮影]
 仙田満(東京工業大学名誉教授)さんは公共施設や街、公園の遊具などのデザインを長く手がけて理論化してきた環境建築家で、遊び空間を6つに分類し、その中に「アジトスペース」を含めています[2]。タコ遊具にも見られる、親の視界から逃れる独立した空間は、子供だけの少し不安な、でも自立した場で、その空間が子供の共同体としての意識を育んだり、成長を促したりするのです。以下は彼が提唱してきた「遊環構造」(あそびやすい空間の構造)ですが、ここにも遊具の〈利他〉を考えるヒントが詰まっているように思うので記しておきます[3]。
①循環機能があること
②その循環(道)が安全で変化に富んでいること
③そのなかにシンボル性の高い空間、場があること
④その循環に〈めまい〉を体験できる部分があること
⑤近道(ショートカット)ができること
⑥循環に広場が取り付いていること
⑦全体がポーラス(多孔質)な空間で構成されていること
 滑り台やブランコ、小さなトンネルなども「めまい空間」に位置づけられているため、辰巳の森緑道公園のタコ遊具はそれ単体でここに挙げた「遊環構造」のほとんどの機能を備えていることになります。実際にこの遊具で遊んでみると、クネクネと蛇行する動線、グルグルと循環する構造が他の公園遊具にはない動きを作り出し、視界が閉ざされていることで思いがけない遭遇や予測できない驚きに満ちています。視界が開けた直線の幾何学的な滑り台を、仮にルイ14世が作らせたヴェルサイユ宮殿の庭園に代表されるフランス式庭園になぞらえるならば、タコ遊具は逆に不規則性や曲線で構成されたイギリス式庭園に近い。前者はシンメトリーで自然を支配するようにデザインされた噴水やトピアリーが並び、全体を見渡すことができる超越的視点によってすべての動きを掌握・予測できるのに対して、後者は予測できない遭遇を生み出し、意想外でコントロールできない動きが、子供たちの「交感」を導きます。一方向的で単線的な遊具では、しばしば動きが封じられたり、順番の競争が起こったりする一方、遊環構造を持つ遊具では、迂回ルートへ移動したり、逆方向へ戻ったり、多様な動きと相互コミュニケーションが形づくられるのです。

関係論的人間観の社会

 コロナ社会になり、子供を連れて以前よりも頻繁に公園に行くようになりました。保育園が休園になったり登園自粛になったりして、仕事をしながら子供を見ることが多くなり、どうしてもiPadの映像に頼らざるを得なくなる時があります。罪悪感に駆られながら、原稿を書く日々。そんな時に公園に行くと、精神的にかなり追い詰められているからか、子供を楽しませる遊具がただのモノではなく、まるで「生きた存在」であるかのように感じられることがあります。コロナ禍の2年余りの間に、こうした経験が積み重なり、公園と遊具の魅力に取り憑かれていきました。
 最近、幾野真穂さんの『他者と生きる——リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書、2022年)という本を面白く読みました。そこでは3つの人間観——①統計学的人間観、②個人主義的人間観、③関係論的人間観——が提示されています。まず「統計学的人間観」の特徴は「ある集団の行く末を予想することが可能になる」という点で、エビデンスや統計による科学的事実を真実と見なします。「個人主義的人間観」は、「一つの身体の中に一つの個人が宿っており、それは世界からも歴史からも分離が可能であるという人についての理解のこと」で、筆者は①と②が共に可算的で、互いの存在を支え合う関係にあると論じています。これらと対照的な「関係論的人間観」では、「個人」なるものの存在が曖昧で、それは置かれた文脈によってそれぞれが「立ち上がっては消えるような、あるようでないような、移ろいゆく存在」と記されています。
 例として取り上げられるのが人類学者のモーリス・レーナルトによるニューカレドニアの先住民・カナク人を調査した『ド・カモ』です。カナク人には僕たちが意味するような「身体」の概念がなく、〈自我〉という観念も持っておらず、生者/死者、自分/親族、自分/樹木など自他の間に同一性を見出すというのです。驚くべきことに「生きている者」を意味する「カモ」は、人間ではない動物や植物、神話的存在でも、カナク人がそこに「何らかの人間らしさ」を見てとれば、「カモ」と呼ばれるとのこと(人間の格好をしていても人間らしくない場合は「カモではない」とされます)。すなわち、「カモ」は「関係の働きのなかで、自分の役割を果たしている程度に応じてのみ実在する」、いわば関係性なしには存在しないものなのです。
 僕たちの日常には、はっきりと意識しないかもしれませんが、明確にあった境界が曖昧化する瞬間があります。たとえば病気だった子供が回復して美味しそうにご飯を食べる時。それがあたかも自分の身体であるかのように喜びを感じることがあります。愛する人が悲しみに暮れる時。それが自分の心の痛みであるかのように感じることもあります。山崎さんのエッセイで、母の胎内における母子融合の「神話的時間」に関する中村佑子さんの『マザリング——現代の母なる場所』の一節が引かれていました——「神話のなかでは、たとえば熊と人間とは交換可能で反転でき、入れ子構造となった多元的な時間を生きている。そこでは、ものの区別は遠のき、ゆるい類縁性ですべてがつながっている」。人もまた条件次第で時にこうした時間を経験しうる、と思うのです。
 遊具は単なるモノにほかなりませんが、「関係論的人間観」の視座から眺めれば、子供との関係性において働き、自らの役割を果たす「カモ」に近づくのではないでしょうか。当然、遊ぶ子供と相互関係を取り持つことのない、ただの物体としての遊具はたくさんあります。けれども子供と緊密な関係を築いたり、モノの機能が子供同士を引きつけたりすることは大いにあります。つらい状況の時に僕が遊具に「生きた存在」であるかのような錯覚を引き起こしたのは、カナク人の世界の認識の仕方を踏まえれば、あながち突飛なことでもないのかもしれません。
 現在、利他主義の潮流としてウィリアム・マッカスキルやピーター・シンガーが推進している〈効果的な利他主義〉の運動が注目されています。彼らは善意が成功に結びつくとはかぎらず、いかにして効果的に人々の役に立てるかを考え、データや合理性を取り入れながら、慈善活動を最大限の成果に変えることを重要視しています。
効果的な利他主義で肝要なのは、「どうすれば最大限の影響を及ぼせるか?」と問い、客観的な証拠と入念な推論を頼りに、その答えを導き出そうとすることだ。いわば慈善活動に対して科学的なアプローチを取り入れるわけだ。何が真実なのかを素直で中立的な視点から突き詰め、それがどういう真実であろうと真実だけを信じると誓うのが「科学」であるとするなら、何が世界にとって最善なのかを素直で中立的な視点から突き詰め、それがどういう行動であろうと最善の行動だけを取ると誓うのが「効果的な利他主義」なのだ。[5]
 マッカスキルの「利他主義」は「ほかの人々の生活を向上させるという意味」であり、ポイントは「ある行動が「効果的」かどうかを判断するには、どの行動がどの行動よりも優れているかを理解しなければならない」と述べている点だと思います。ここでは施す者(与える主体)と施される者(受け取る客体)が歴然と分けられ、エビデンス・ベースで無駄を省いてもっとも効率のよい方法が提案されているからです。この利他主義は「統計学的人間観」とほぼ同じで、それと共犯関係にある「個人主義的人間観」にも近いでしょう。このような功利主義や成果主義のよい側面も無論あると思いますが、「自分自身の快適な生活を維持しつつ相手にとってよいことができるなら、それに越したことはない。私はそれを喜んで利他主義と呼ぼう」と断言する時のマッカスキルのナイーブな記述は、利他行為につきまとう受け手の「負債感」や「与え手」が囚われる「偽善性」を乗り越えられていないように見受けられます(この点に関しては、中島岳志さんの新刊『思いがけず利他』が大変示唆的で参考になります)。
 公共圏にあるさまざまなモノ(環境)が人(身体)のコミュニケーションをいかに生み出しているのか、モノと人との関係には、利他主義が突き当たる困難を乗り越える鍵があるように思えてなりません。いま、僕は公園の遊具と、そこで遊ぶ子供たちを観察するためのフィールドワークを定期的に行なっています。まだ緒に就いたばかりですが、これまでと違って観察のモードで公園に行くと、思いがけない発見がたくさんあり、遊具の奥深さをしみじみと味わっているところです。今後も〈利他〉のエッセンスに近づけるよう楽しんで遊具のフィールドワークに行きたいと思います。

 新メンバーとして山崎さん、木内さんと一緒に未来の人類研究センターに加わったのが2021年4月、翌月から研究会を重ねつつ、このリレーエッセイを一人5回で合計15通ほど書いてきました。当初は半年くらいで終える計画でしたが、大幅に更新に時間がかかり、10ヶ月にもなってしまいました。この期間、それぞれ色んな出来事があったと思います。そのような日々のことと地続きのエッセイを通じてやり取りができたことで、〈利他〉のこと以上に、お二人の深いところにある人間性に触れることができたように感じています。普段は会議や教育のことでコミュニケーションを取ることばかりでしたが、学術論文などの「研究」とは違った形で、ある意味「私的」な交感ができたように思うのです。今後は、ここでいただいた課題を発酵させていければと存じます。お付き合いくださり、ありがとうございました。
[1]東浩紀「情報自由論——データの権力、暗号の倫理(3)規律訓練から環境管理へ」、『中央公論』2002年9月号、254-263頁。
[2]仙田満『遊環構造デザイン——円い空間が未来をひらく』放送大学叢書、2020年、62-71頁。遊びの原空間としてあげられているのは、自然スペース、アジトスペース、道スペース、アナーキースペース、オープンスペース、遊具スペース。
[3]同前、88頁。
[4]幾野真穂『他者と生きる——リスク・病い・死をめぐる人類学』集英社新書、2022年、180-201頁。
[5]ウィリアム・マッカスキル『〈効果的な利他主義〉宣言!——慈善活動への科学的アプローチ』千葉敏生訳、みすず書房、2018年、13頁。