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第13回 製麹~マザリング――母たちの国へ 山崎太郎

2021.12.08

木内久美子さま、北村匡平さま

 長い時間お待たせしてしまい、申し訳ありません。リレー・エッセイ、いよいよ最終ラウンドがまわってきたことを実感すると、これまでのエッセイのなかで、自分で自分に投げかけたいくつかの課題をどうやって回収しようかだとか、前回のラウンドのなかから、記憶の共有と継承をめぐる木内さんの考察と、最近の「嬉しい体験」から利他が成り立つ条件について改めて考えた北村さんのエッセイのどちらにどう反応したらよいかだとか、いろいろな想いが渦巻いて収拾がつかなくなりました。
 あるテーマを思い定め、途中まで書き進めてはうまく行かないことに気づき、ゼロの地点に立ち戻り、また苦し紛れに別のテーマを手繰り寄せてはやはりこれも駄目だと途中で投げ出す……そんなことを繰り返しながら、いよいよ時間に迫られた状況の中で、自由参加の「具体の科学研究会」にあえて顔を出したのは、何かの予感が働いたからかも知れません。
 「利他プロジェクト」に付属しながら不定期に行なわれるこの催し、私が参加したのは東工大の出身で杜氏になった戸田京介さんという方から「酒造り」について話を伺うという回でしたが、まさにここで聞いた話が酵母となって、ようやく今回自分がエッセイに書くべきテーマが発酵しつつあるという嬉しい手ごたえを掴んだのでした。もちろん、発酵「しつつある」というだけで、どんなものが出来上がるか、未だ予断は許さない状態ですが、まずは取っつきとして、戸田さんの話のなかから特に私が刺激を受けた部分をかいつまんで紹介しましょう。

 WAKAZEはフランスと日本の二ケ所に拠点を持ち、「伝統的な手法を活かしながら、極めて革新的なSAKEを造る」ことを目指しているユニークな日本酒の醸造会社です。戸田さんはそのうち三軒茶屋醸造所の二代目杜氏として独自のSAKEの開発をまかされているのですが、「自由で独創的な発想による」彼の酒造りは、江戸時代以来の「水酛・生酛」による手法を基本にしています。現代において主流をなす「近代的速醸」は人工的な乳酸、酵素剤、アルコールなどのさまざまな添加物を加えることで菌をうまくコントロールしながら、効率的な発酵と醸造を実現するものですが、一方、蔵付きの乳酸菌の働きによって酸を高度にする昔ながらの自然製法に、乳酸発酵した茶葉や白麹を用いるという革新的アイデアを加えたWAKAZEの酒造りは、造り手による細かいケアも必要で時間もかかり、失敗のリスクも大きくなると想像できるでしょう。とりわけ重要な工程となるのが、蒸米に種麹を振りかけ、麹菌を繁殖させる製麹というプロセスで、約48時間~50時間のあいだに「種切り」「切り返し」「盛り」「積み替え」「仲仕事」「仕舞い仕事」「最高積み替え」「出麹」という細かい手作業を加える必要があるので、これが行なわれる二日間は造り手もふだんの生活のリズムを変えなければならないそうです。
 ここからは戸田さん自身の語りをそのまま引用することにしましょう。
 製麹の二日間は麹菌の動きがものすごくダイナミックなので、人間が寝ている時間に作業をしなきゃいけないタイミングがどうしても発生してしまいます。最初は蒸しあげたばっかりで、なんの菌も生えてないまっさらな米を二日後にはちゃんと糖化酵素を持ってカビが生えた状態にしなきゃいけなくて。しかも麹の挙動というのが毎回一定ではないんですね。もちろん一定にしようと努めますけれど、微生物の性(さが)と言いましょうか、どうしても同じにはならない。そのなかで、今日の麹はこのような感じだから普段なら一時間前に手入れするところを、一時間ずらして手入れしようかみたいな感じで、麹の挙動に合わせながら、数時間おきに様子を見る必要があるんです。そのあいだは自分の生活リズムもそのときの麹のリズムに合わせていくみたいなことになってきて。例えば、蒸米が最高温度にあがってから、温度を下げるタイミングが結構重要で、45度ぐらいまでもっていきたいし、でも41度だと低いしみたいなかたちでものすごく微妙な違いがあったりするんですけど、じゃあそのために何時に起きるかとか、何時間後に手入れしようかとか、なんとなく予測をつけたりするんですが、それがピッタリ当てはまった時とか、すごい自分と麹のリズムが合っているという手ごたえを感じます。環世界が移行するような、そういう感覚が開くんです。
 造り手の意志だけではどうにもならない微生物の(戸田さんの表現を借りれば)「挙動」に耳を澄まし、自分の生活リズムを麹の息づかいに寄り添わせてゆく――戸田さんの話を興味深く伺いながら、私は最近読んだある本の一節を思い出していました。

 妊娠中の私におとずれたのは、霞がかった世界のなかで、小さな息一つ、一陣の風のひと吹きにも、触覚を寄り添わせるような微細な感覚だった。(中村佑子『マザリング 現代の母なる場所』5頁)

自分ではない何者かに、自分の時間をさしだし、ただ生命の流れにひれ伏して、生まれたての者におとずれている嵐のような変化や、喜びや苦しみといった直接的で強い感覚に同化する時間。そのなかで突き動かされる得体の知れない感情こそが、かつて「母」と呼ばれていたものなのかもしれない。(同212頁)

 そう、まさに(酵母という言葉のなかに、すでに母なるものが含まれているように)、麹の「環世界」にみずからが「移行」すると戸田さんが形容した酒造りの営みは、この本に書かれた妊娠と出産さらには授乳期の子育てにおける母なるものの感覚にも通じているのではないでしょうか……

 私がこの本に出会ったのは、妻が図書館から借りてきた数冊のなかに、たまたまこの一冊が混じっていたからです。妊娠・子育ての困難をめぐるエッセイといえば、ふだんなら私の関心の少なくとも中心には入らないジャンルなので、この本を手に取ったのもまったくの偶然がなせるわざでしょう。なのに、最初の数ページをパラパラとめくったとたん、その文章に惹き込まれ、目が離せなくなって、妻よりも先に最後まで読み通してしまったのです。
 何が私の関心をそこまで惹きつけたのか。この本は妊娠や子育てに従事する女性たち(一部は男性)への取材を軸に構成されており、そのなかで彼女たち自身が育った家庭環境、さらには著者自身の人生を綯い合わせることで、「母」とは何かを問いかけながら、父権的思考を脱していない現代日本社会への批判と提言を打ち出すものです。しかし、それだけなら、どうしても今この本を読みたい、読まなければという衝迫を私が覚えるには至らなかったことでしょう。
 この本が私の心を捉えた理由はなによりも、「本質的に言語では形容不可能な「母」」なるもの、「生命が躍動し「生」の方に触れたり、生命が動きを止め「死」の気配に振れたりする、その振り子の繊細な挙動に応え、揺らぎつづける存在」(7頁)のありように、あくまでも言語を通して迫ろうとする著者の執念、肌身の感覚を研ぎ澄ましながら、みずからの内なる自然と外の世界を言葉で写しとってゆくような文体そのものの迫力にありました。生理に即したその文章は独特の生々しさと艶めかしさを醸す一方で、哲学的な思考を基盤とした一定の硬度を含んでいます。少し長くなりますが、「母」なるものがなぜ「言語では形容不可能」なのかを述べた箇所を引用しましょう。
 子宮という空隙は、いつか訪れるかもしれない「他者性」にむかって開かれ、その準備が毎月未遂に終わったり、宿った子を失うという可能性をも引き受けている。存在の「有」と「無」の運命を担っているという意味で、それは肉体のなかにあるにもかかわらず、世界には存在せず、名指されもしない場だ。…中略…誰しもが生まれたときに通過したこの場所の記憶は、「太古の時間」であり、子どもはこの「太古の時間」をいずれ成長したあとに忌避することで、そこから抜け出し一人の「主体」となって、父なる論理と他者のいる世界に入り、記号表象の行われる社会の構成員になる。
 一方、母子融合の太古の時間は、普遍的言語で表徴される世界ではなく、声にならないうめきや叫び、身ぶりやハミングなど、言語の裁き以前の世界だ。その「声」は、赤ん坊から母への最初の応答でもある。このそもそもが名状し得ないものを、記号によって硬直化した世界で、どのように記述できるだろうか。(15~16頁)
 ここで言われる「太古の時間」は、解剖学者三木成夫の説に則りつつ著者が述べるように、母親の胎内でみずからも日々こくこくと形状を発展させながら「生命進化の過程を追体験する」胎児にとっての時間であると同時に、「妊娠出産を通して女性が投げ出されている宇宙のなかの「巨大な時間」」、文明社会を流れる直線的な時間とは異質の、昼と夜の交替や四季の移ろいなど自然のめぐりが表す「神話的時間」にも通じるものです。
大人はみな、線的な時間に参加して社会活動を成り立たせ、とくに科学や学問は、線的時間を通して事象の同質性と異質性を分類していく。一方、神話のなかでは、たとえば熊と人間とは交換可能で反転でき、入れ子構造となった多元的な時間を生きている。そこでは、ものの区別は遠のき、ゆるい類縁性ですべてがつながっている。時間は反復し、元いた場所に戻り、円環を成して繰り返されていく。(46頁)
 引用文からは『マザリング』の議論が単なる妊娠や子育ての体験談を超えて、言語や時間や生命や文明をめぐる広大で多様な問題圏を包み込んでいることが感じとれるでしょう。そう、まさに著者の言うとおり、「母を考えることは、自然と人間との関係をとらえ直すこと」(8頁)にほかならず、その結果、男性の読者である私も、自分にとって徹底的に他者であった母なるものの体験・感覚を、万象のうちに生きる私自身の存在の根にもつながるものとして捉えなおすことができたらと願うようになったのです。
 別の箇所で著者は「濡れたぬるぬる」という生々しい形容を母子の空間に与えつつ、それが介護の場にも通じていて、「人が生まれ、死ぬ営みの総決算の現場」にほかならないのだと定義します。たしかに「妊娠出産期は体液や血、お乳やよだれなど、ぬるぬるする濡れたものとひたすら付き合って行く時間」ですが、ここに「排泄物」をも加えてイメージすれば、そのことは容易に納得できるでしょう。しかしながら、こうした原初のリアリティは、「現代都市の高度に情報化された社会」「生と死を排除することで成立したすきまのない伽藍」においては居場所を持ちません。言い換えるならば、この「濡れたぬるぬる」にまみれた空間を、あえて周縁の、目に見えぬ隠れた領域に追いやることで父権的現代文明は成立・発展してきたわけです(16~17頁)。
 母と子の時間は――「胎内回帰」という言葉が表すように――多くは「退行」のイメージで語られてきましたが、これも直線的発展をよしとする現代社会の思考に基づいているのでしょう。その一例として、著者が挙げるのが、「子供を外界から保護する、思考停止装置」としてのマイ・ホームを母胎に喩えながら、「ぬるぬるした体液の延長としての母子の繭から抜け出」すよう呼びかけた建築家・磯崎新の煽情的議論です(『都市住宅』1969年10月号初出)。「母子の繭」が安逸な保護膜にすぎないという考えへの反論として、『マザリング』の著者は「自分のなかにいる別の生命体の、圧倒的なうごめき」のさらに先に「もっと匿名的な「生命」そのものの宇宙」「生命が発生したり、命が弊(つい)えたりする大きな海のようなもの」が広がっているという自身の臨月期の体感を描写しつつ、「無意識の闇」「暗黒空間」「生死の境界」「際(きわ)」という形容を連ねながら、母胎がけっして「あたたかで安定した世界ではない」と主張するのです(35~38頁)。
 上のくだりの最後には、「胎内を脱出することで獲得される攻撃的な思想」ではなく、「胎内で母子が共有する「無意識の闇」に寄り添った」思想に社会批評の新たな可能性を見出そうとする著者の決意が語られますが、この本の終わり近くで、ジル・ドゥルーズの「口唇的母」(『ザッヘル・マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの』)という用語を介して語られる一節は、そうした問いへのひとつの答と見なすこともできるでしょう。ドゥルーズによれば、口唇的母とは「性の対象としての官能的女性とも父(夫)に従属的なエディプス的母とも峻別」される、制御の利かぬ冷淡で厳格で残酷な「自然」そのものであり、「死と隣接」しながら、「人間の秩序を生死の境にまで彷徨わせる存在」である。著者はみずからが「口唇的母」として生きていた時期を振り返りつつ、こう述べるのです。
 母子カプセルの繭のなかで行なわれているのは、峻厳な生の儀式だった。母の自己免疫システムは、自分に宿った他者性を、悪阻や体調不良として一度は否認し拒絶するが、やがてどんなものでも受け入れる「器」のような姿を作り出す。「器」の形は、開かれているようでも閉じられているようでもあり、開かれているからこそ中心はひずみ、内部にひそやかな空間を持つ。そのことにより「器」は媒質となり、そこで他者とのおぼろげな会話が始まる。
 この繭のなかで行われる、その都度の段階の生命が、答えも理由もなく、ただ前に進んでいく、ナイフの切っ先のような生の行程。均衡と不均衡のなかで営まれる、形在るすべてのもののあやうさと美しさ。生に近づくことで死に隣接し、人間の秩序を攪乱する。それをこそ私は、「母なる」自分から受け取った。(234頁)

 自然を形成する四大のなかで、母胎に集約された「母なるもの」から真っ先に浮かび上がるのは「水」のイメージでしょうが(著者自身、何度も「大きな海」という表現を用いています)、しかし一方で、「生死の境界」に位置する「濡れたぬるぬる」は湿り気と養分をたっぷり含んだ「土」のイメージにも結びつくのではないでしょうか。先日の「具体の科学研究会」で、戸田京介さんが一時間にわたる話のなかで最後に触れたのも、「生命が発生したり、命が弊(つい)えたりする」場としての「土」の話でした。
 例えば、木の葉が土に落ちると、そこからカビやキノコが生え、セルロースやでんぷん等、高分子の炭素源を分解し、さまざまな菌が活性化する。こうした土中における代謝のプロセスに相当するものが酒造りにおいては、酵母が糖をうちに取り込むことで代謝を繰り返し、エタノール(酒精)を発生させる過程に見てとれるというわけです。このエタノールを戸田さんは「酵母が糖を食べて出した排泄物」と形容しました。だとすると、まさに私たちはこの酵母の排泄物を体内に取り込んで、自らの排泄物を外に出す、それが結果的にまた土に還るというわけで、その土が再び代謝と分解の作用によって植物に栄養を与え、酒のもととなる米を造り出す過程を加えると、おのずと「土」こそが大きな自然の生命の円環を作動しているさまが視えてくる気がします。
 土に還る間際の生命は「生(なま)」の状態にある」という戸田さんの指摘も『マザリング』の著者が乾いた無菌の都市空間と対置する「濡れたぬるぬる」の領域に通じるものでしょう。例えば、人は生命を持った植物である稲を刈りこみ、脱穀し、十分に乾かして、腐敗しにくい、動かない状態にする。その状態でこそ米は文明の歴史のなかで通貨にも相当する交換価値を持つものとなったのですが、酒造りとはこの米を微生物の働きによってもう一度、生の状態に戻してゆく過程にほかならないというわけです。
 ちなみに、戸田さんは発酵と腐敗がほとんど同一の現象を指すことも指摘しています。プラスの価値とともに語られるときは前者、マイナスに転じると後者ということですが、付け加えていうと、発酵には誕生のイメージ、腐敗には死のイメージがつきまとっていて、それが根のところで同一のものでもありうるというのは、とても興味深いですね。

 最後に少しだけ自分の専門に引きつけた話をして、このリレー・エッセイにおける私の回を結びたいと思います。
 土に結びついた母なるものの存在は世界の神話や文学のなかにさまざまな姿で現われますが、ワーグナーの《ニーベルングの指環》四部作に登場する叡智の女神エルダもそうした系譜に連なっています。その名もドイツ語で大地を表すErde(英語のearth)に由来しますし、彼女が棲む「地中の奥深く」は作品のなかでは大地の「胎(ふところ)」(原語Schoßは「母胎」「子宮」を意味する言葉です)とも形容されますから、まさにエルダという存在においては地中の領域が母なるもののイメージと重ね合わせられていることになるでしょう。
 四部作の発端となる《ラインの黄金》では「愛」を断念したある人物が自然界から黄金を盗み出し、そこから至上の権力を所有者にもたらす魔力を宿す指環を造り出します。この指環をめぐって天上世界や地上で熾烈な闘争が始まるのですが、争いが収拾不可能なまでに高まった瞬間、「太古より/未来永劫にわたる/現し世のありさまを/くまなく見通す/万物に通じた始原の巫女」エルダが姿を現わし、一同に「生者必滅の理(ことわり)」を説き、「指環の呪い」を避けよと戒めて、「陰鬱な日々が/神々にも訪れようとしている」と予言するのです。この作品において、指環への欲望をぎらつかせた天上世界の神々は人間たちの写し絵にほかなりませんから、土の化身ともいえる叡智の女神が警告する「神々の黄昏」は、支配欲に駆られる人類が自然の破壊と搾取によって造り上げた文明が「指環の呪い」(自然の反乱)によって没落の危機に瀕していることの比喩とも解釈できるでしょう。
 このあとエルダは「畏れ謹んで、よく考えるのです」という言葉を残して、再び地中に姿を消しますが、「不安につきまとわれ、「憂いと畏れに胸を締めつけられた」神々の長ヴォータンは、「いかに懸念を追い払うか、/エルダに教えを乞うてみよう。/エルダのもとに降りてゆかねば!」という決意を口走り、事実、その後、「地中の奥深く/大地の胎(ふところ)にもぐって」(第2部《ヴァルキューレ》より、ヴォータンの語り)ゆくことになります。
 《ニーベルングの指環》におけるエルダは北欧神話の予言の女神ヴェルヴァ(ゲルマン神話のヴァーラ)をモデルに、ギリシャ神話の大地母神ガイアのイメージを取り込んだ存在ですが、ゲーテが描く「母たちの国」もひょっとしたら、ヴォータンの反応をはじめ、台詞や設定の端々に影響を与えているのかも知れません。『ファウスト』第2部で主人公は、古代ギリシャの神話世界から死者たちを現実世界に連れ出すべく、「形づくってはまた造り直す/永遠なる思いの永遠なる営み」によって「生命の形が生命なきまま漂い働く」時空を超越した空間(=母たちの国)に赴くのです。
 自然を制御・支配しようとする主人公(=男性)の強引な行動を、「母なるもの」による文明批判的な視点から描いたこの二つの作品、『ファウスト』がワーグナーに与えた影響については、ゲーテをもう一度読み直しながら、今後も考えていきたいと思っています。再び課題ばかり浮かび上がって、何も完結に至らず恐縮ですが、あとは安んじて木内さんと北村さんのお二人にバトンを渡すことにいたします。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
*ワーグナー《ラインの黄金》《ヴァルキューレ》からの引用は(日本ワーグナー協会監修、三光長治・高辻知義・三宅幸夫・山崎太郎訳、白水社刊)、ゲーテ『ファウスト』からの引用は(柴田翔訳、講談社刊)に基づく。