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第1回 模倣・演技・憑依──自他の境が動くとき 山崎太郎

2021.05.10

木内久美子さま、北村匡平さま

 年の順ということなのか、リレー・エッセイの一番手を仰せつかり、いささか緊張しています。形もテーマも特に決められてはいない最初の原稿を、さて、どう書き出そうか、お二人にどんなボールを投げたらよいか、いろいろと思い悩みましたが、やはり今回の企画が持ち上がるきっかけとなった先日の「利他ラジオ」収録時に出た話題から始めることにいたしましょう。

 あのときの話のとっかかりは「境界」という言葉でした。一見、自分と他者を分断する線のようにしか思えない「境界」だが、実は広大な領域を含み持つ太い帯と考えられはしないか、あるいは生物の体と外界を隔てる皮膚と同様、そこに浸透膜のような無数の小さな穴が開いているのではないか、そもそも自他の境界は固定された線ではなく、自分が人から影響を受けることで絶えず位置をずらし動いているはずではないか……そんなふうに、意見を交換しながら、あれこれイメージを膨らませてゆくなかで、話題はいつしか、境界を横断・往来する契機としての翻訳や演奏の話に移っていったのでした。
 「フランス語を書いているときに、自分の筆跡が昔フランス語の作文を直してくれた先生の字になっている」という木内さん、「音楽批評を執筆するとき、対象となっている曲をギターで弾いてみると、自分では思いもよらぬコード進行が出てきて、その作曲家の手癖が乗り移ったような感覚を味わえる」という北村さん。あのとき、興味深く話を聞きながら、何かが憑依したようなお二人の感性に大いに驚き、感心もしたのですが、今になって改めて思うのは、そうした体験はひょっとすると、いずれも「他者をまねたい」という普遍的欲望から発していて、しかも、それこそが自他の境界を流動化する結果につながるのではないかということでした。

 私自身はあのとき、自分のなかに別の自分を持ち、他の言語の思考や感性を取り入れること、そうした二つの自分のあいだを行き来することに外国語学習の意義があるのだというようなことをドイツ語教員の立場と経験から述べたわけですが、外国語を学ぶ原点にも「他者をまねる」という指向があるはずです。
 こうした私の考えについては以前、「外国語学習は究極のリベラルアーツ(=人を自由にする技)だ!」というような趣旨の文を学内のニューズレターに書いたことがありますので、もう一度、その一部を引用しましょう。
 語学学習の原点には口で音を唱える、手で文字を書くという身体行為があるのであり、その意味で言語は一つの習得すべき技=アートにほかならないし、スポーツや職人の手仕事と同様、その習得に日々の鍛錬が必要であることは言うまでもない。そして、この鍛錬(学ぶ)は模倣(まねぶ)から始まる――幼児が大人の言うことを真似し、口に出して繰り返すことで、言葉を覚えてゆくように。……
 今まで知らなかった文字を紙に書きつけてみる。知らなかった音を自分の口で発してみる。母語を離れて、不自由な状況のなかに身を置いてこそ可能になるこの体験こそが、未知の世界への扉を開き、さらに言えば、自分のうちに潜在する未知の可能性を見出すきっかけにもなるのである。母語にはない特殊な音を出すためには、口や舌の、それまで自分で使ったことのない部位や機能を駆使しなければならない。その結果として出てきた音は、自分自身の能力についても新たな認識をもたらすだろう。外国語学習とはこのような体験の積み重ねにほかならない。すなわち母語の使用・思考のなかに縛られた自分の「何か」を、外国語を触媒にして、外に開放してゆく、それによって自分自身が「自由に」なるのである。
(リベラルアーツ研究教育院外国語セクション『外国語だより』vol.3所収、「リベラルアーツとしての外国語学習」より)
 もちろん、発音や文字の習得は語学学習の最初歩にすぎません。最も目に見えてイメージしやすい模倣行為なので、特にここに例として出したわけですが、その後、文法の勉強が進んで、高度の表現などを学ぶ段階に至っても、私たちは母語話者をまねながら、その思考法と感覚を自分自身のうちに取り入れてゆこうとすることに変わりはありません。

 そして、さらに最高度の抽象的な思考を伴う翻訳という営みにおいても、その根底に模倣への欲望が潜んでいることは、この仕事に携わったことのある方の多くが実感しているところではないでしょうか。できるかぎり原文に寄り添い、その意味ばかりか、書き手の思考の流れ、文体のリズムをもどうしたら日本語に写し取ることができるのか、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返しながら、悩みぬく。そんなとき、やはり翻訳者は作者になりたい、その筆遣いを模倣したいという、異なる言語においてはほとんど不可能にさえ思える欲望にとり憑かれているはずです。そして、果てしなくも思える時間を原文と向き合うことに費やした末に、ごく稀にですが、ふと作者の肉声が響いてきて、自分に乗り移るような、そんな感覚が訪れる。これこそは翻訳の醍醐味というべきでしょう。
 もちろん、こうした感覚の有無は対象となる文章のジャンルによっても違ってくるはずです。私自身が最近、こうした思いを新たにしているのは、このところ暇ができると――今のところ、なんら出版や発表のあてもありませんから、ほとんど自分自身のために趣味で、と言ってもよいのですが――ワーグナーの書簡を訳しているからです。
 ワーグナーはその生涯、膨大な量の手紙を書きました。現存が確認されるものだけでも、その数は優に5000通を超えますし、一通の分量が日本語訳の原稿用紙換算で30枚に達するものも珍しくありません。しかも、そこに書かれた内容はきわめて人間臭くて生々しいし、文体は彼の音楽からイメージできるように、過剰なまでに饒舌で雄弁です。最初の夫人ミンナに宛てた数年間の書簡を追うだけでも、熱烈なラブレター調の呼びかけあり、急な別れ話あり、復縁を迫る泣き落としあり、開き直りの自己弁護あり、と実にさまざまです。そして、それらを逐一訳してゆくと、私自身は自分では書くわけもない内容と文体を写し取りながら、自分のなかに攻撃的で自己顕示欲の強いワーグナーが一瞬乗り移ったような気分に襲われ、日常ではありえないシチュエーションを仮想しつつ、別人格を演じるような快感が膨らんでゆくのです。没頭すると、キーボードを思い切り力を込めて叩きつつ、打ち込んでいる訳文を同時に、しゃべるように口ずさんでいることさえあります。

 手紙という、きわめて私的な媒体とは対極に位置する演劇などの戯曲でも、おそらく似たようなことはおきます。私の場合は研究の対象上、オペラの台本を翻訳する機会をこれまでたびたび頂きましたが、興が乗ると、登場人物の声が自分に乗り移ったような気分になることがありました。オペラの場合は、音楽が付きますから、CDをかけながら、オーケストラに合わせて、そのときの音楽に乗せるように日本語で、自分の訳した台詞を口ずさんでみるということもします。別に、メロデーに乗せて日本語で歌うために訳しているわけではないのですが、それでも訳文を読みあげるスピードが音楽に内在するエネルギーに見合ったものであるかどうか、それが訳文の出来栄えを測る自分にとっての重要な物差しになるのです。
 と、ここまで書いてきて、ふと思ったのは、演劇やオペラにおける、演じたり歌ったりという行為はまさに「他者をまねる」という行為の究極の形態であり、その点で「翻訳」という営みともやはり通じ合っているという事実です。
 このこと自体は今さら述べるまでもなく、当たり前のことだと思われるかも知れませんが、演じる=まねるという行為に立ち現われる自他の境界というイメージは私自身の興味を強く刺激しますし、やはり「利他」という現象を考えるうえで前提となる「自己」とは何かという問いともおそらくは結びついてきますので、最後に、演劇について思いめぐらした先人たちの言葉を導きの糸にして、その点を少しだけ掘り下げてみたいと思います。

 アリストテレスは『詩学』のなかで、人間に生まれつきそなわった「まねる」という自然の本能こそが悲劇を頂点とするさまざまな芸術を生み出したのだと述べています。曰く「描写(まね)するということであるが、これは子供のときから人間にそなわる自然の傾向であって、人間が他の動物よりすぐれている点もこの点にある。つまり、人間はあらゆる動物のなかで、ものまね(描写)の能力を最もよく持っていて、最初にものを学ぶのもこのまねびによっておこなうのである。」(田中美知太郎訳)
 ドラマにおける「ものまね」という言葉で、多くの人が第一に連想するのはおそらく登場人物を演じる役者でしょう。俳優たちはまさに、与えられた台本を忠実に口真似と身振りで再現しながら、想像上の人物に成り変わろうとするわけですが、しかし、アリストテレスはこれをもう少し広い意味で、すなわち作者自身の創作の原点をなす欲望というニュアンスで用いているようです。
 福田恒存は著作『人間・この劇的なるもの』のなかで『詩学』のこの箇所を引用しつつ、シェイクスピアを論じながら、アリストテレスの考えをさらに展開しています。驚くべきは福田が「すでに起った典型的な行為をまねようとすること、そこに劇の本質がある」と喝破したうえで、さらにこう述べているくだりです。「劇の作者は主人公をまねようとする。実生活においてではなく、創作行為において、作者は主人公をまねる。そして役者や見物は、劇場において作者の描いた主人公をなぞり、まねる。」
 無心にこの文を読んだとき、読者は「作者は主人公をまねる」という見解に行き当たって、一瞬ぎょっとなるかも知れません。しかしながら、先ほど述べた翻訳の境地を一度でも体験したことのある人なら、一見パラドクシカルなこの文の意味するところを容易に想像しうるでしょう。つまり芝居の作者は戯曲を書くとき、作中の登場人物に成り切って、――たとえ言葉や身振りに出さずとも、心のなかでは――その口調や身振りを自分で口ずさみ演じながら、それを紙の上に書き記すということを行なっているのではないか?

 実はワーグナーも自身の演劇論でもある『オペラの使命について』という文章のなかで、福田と同様、シェイクスピアを例にとりながら、同じようなことを書いています。しかも、そこでワーグナーは「模倣」による創作と演技を「即興」という言葉に結びつけて、論じているのです。模倣と即興という一見まったく相容れない二つの概念が、いったいどこでどのようにつながるのか? ワーグナーの考えを追ってみましょう。
 シェイクスピアが描く人物と出来事が驚くほど生気に満ちている理由として、ワーグナーは「詩人が俳優の即興的精神をわがものとし、完全にこの即興の性格に従って細部まで劇の流れを仕上げたから」だと述べ、シェイクスピア劇を「詩心あふれる即興演技を文字にとどめたもの」(太字強調はワーグナー)と定義します。いわばシェイクスピアは躍動するパフォーマンスの精神を文字のうちにいったん凝固させただけにすぎない、ゆえに役者の側も自分の前に差し出された台本を動かぬものとして捉えるのではなく、自らの演技によってもう一度流動化することで、そこに新たな命を吹き込まなければならないというわけです。
 こうした努力の結果、発揮される演技者の自発性と即興性をワーグナーは「登場人物の所作や台詞につきまとう、どう見ても不思議な偶然性」と形容するのですが、しかし、この「偶然性」は元の台本をわずかも損なうものではありません。最高度に忠実な模倣が最上の自発性を引き出すという逆説が成り立つのはなぜか? ワーグナーはこう言います。「ただひたすら、今この瞬間に演じられるべき役に成り切ろうとする作者の思いによって命を吹き込まれる役者たちにしてみれば、この何かにとり憑かれたような状態とは無縁の台詞など、口にできるはずもないのです。」
 ワーグナーはこの論文のなかでシェイクスピアと並んで、「即興の精神」を固定化した作者の例としてベートーヴェンの名を挙げているのですが、もちろん「詩心あふれる即興演技を文字にとどめたもの」とは何よりも、彼自身が生み出そうとしている音楽劇の創造の秘密を解き明かす言葉にほかなりません。
 ワーグナーは――出典が今とっさに出てきませんが――たしか、ある手紙の中で、自分に才能があれば、歌手として自作の舞台に立ち、大いに演じ、歌いたかった。創作とは演じ歌うことの代償行為であり、自作を演じる喜びに較べれば、作者である満足などちっぽけなものにすぎないというようなことを述べています。やはり、役を「まねる」こと、パフォーマンスへの秘かな欲望こそが、彼を創作へと駆り立てるエネルギーの源泉になったということでしょう。

 このテーマについては、さらに深く掘り下げて考えていきたいのですが、今の自分にはそのための用意もないし、まだまだ時間も必要だろうというのが正直な気持ちです。ここでは、とりあえずの結論めいたものとして、次のような問いを残しておきましょう。

「演じる」という行為には芸術創造の「独創性」と「模倣性」、「再現性」と「一回性(即興性)」という一見対立する概念を逆説的に結びつける不思議な力が宿っているのではないか?

予想以上に長い文になってしまい、しかも変てこなボールで申し訳ありません。でも感性鋭く、関心領域もとても広いお二人のこと、木内さん、北村さんがこのボールを、どんなふうに打ち返し、投げ返してくださるのか、楽しみに待ちたいと思います。