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第6回 自己を組み替える「旅」 北村匡平

2021.06.30

山崎太郎さま、木内久美子さま

現実/虚構の境界を破壊する

 僕が専門とする映画においても「第四の壁」(現実と虚構の境界線)を破壊するような実践は、ウディ・アレンやミヒャエル・ハネケを持ち出すまでもなく、もはやありふれたものとなっています。ただし、その歴史は長く、19世紀末に映画が誕生してほどなく、初期映画の時代から見られました。ジェームズ・ウィリアムソンの『大飲み』(1901)では英国紳士がカメラに近づいてきて大口でカメラ=撮影技師を飲み込んでしまうというイリュージョンがあったり、エドウィン・S・ポーターの『大列車強盗』(1903)では強盗がいきなりカメラ目線で観客に向かってピストルを撃つショットが挿入されていたり、観客の存在を意識したフィルムは初期映画の時代にかなり製作されていました。演劇同様、映画もハリウッドを中心に映画の文法が確立され、観客は境界の外側から物語を鑑賞するスタイルが覇権を握っていきます。
 ただ、古典期以降であっても、前衛映画の作家たちは平然と壁を突き破ってみせます。たとえばジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960)では冒頭から車を運転するジャン=ポール・ベルモンドが物語上誰もいない助手席に向かってカメラ目線で話しかけ(つまり観客に向かって語っています)、『気狂いピエロ』(1965)ではオープンカーで走るジャン=ポール・ベルモンドが背後に置かれたカメラのほうを振り返って「お気楽娘だ」と語りかけます。「誰?」と隣に乗ったアンナ・カリーナが尋ねると彼は「観客に語りかけた」と答え、物語に没入したい観客(あるいは登場人物に感情移入したい観客)の欲望は唐突に打ち消されてしまう。日本でも敗戦後の貧しいカップルを描いた黒澤明の『素晴らしき日曜日』(1947)の終盤で、中北千枝子が「皆さんお願いです。どうか拍手をしてやってください!」とカメラ=観客に向かって叫ぶという演出があります。観客の拍手喝采を取り込んで「映画」が完成するというわけです。
 山崎さんのワーグナーの例は、異化効果によって「お前は映画を観ているのだ」と観客を突き放すゴダール映画よりも、観客(現実)/映画(虚構)の間の境を大団円で決壊させ、「法悦的瞬間」を目指して突き進む黒澤映画に近いように思います。見る主体であった観客は俳優から視線を返され、虚構の世界へと誘われて、映画の登場人物として物語世界と一体化します。観客としての立ち位置が揺さぶられ、テクストに巻き込まれてゆく。すなわち、あらかじめ「観客」は「未完成な映画」を完成させる「作者/演者」としても織り込まれているのです。とはいえ舞台芸術のパフォーマンスと映画では決定的な違いがあります。それは映画が複製芸術であるという点。基本的に舞台は「一回性」の芸術であり、その都度、作品は異なるパフォーマンスとして受容されるものです。これが演劇の面白さの一つでしょうが、演劇と差別化するべく、誰がどこで観ても、何度観ても同じ作品を鑑賞できる「不変性」が映画に求められていったのです。現代の動画配信サービスで映画を観る観客の孤立した鑑賞モードなどはその最たる例でしょう。だからこそ一方で、シネマコンプレックスにおける応援上映や爆音上映といった、その場でしか味わえない体験が求められているともいえます。

現代の映像文化における聴覚性

 映画のモダニズムが起こり、複製芸術としての映画が確立されつつあるなかで、日本では欧米諸国に比べて映画を「一回性」のライブパフォーマンスのまま留めておこうとする力学が根強くありました。それが活動弁士という特異な存在で(周防正行監督の『カツベン!』が参考になります)、映画がトーキー化する1930年代に衰退していきます。このサイレント映画の時代、洋画であれ邦画であれ、スクリーンの脇に立った弁士は映画のキャラクターに外部から台詞をあて、シチュエーションを解説する、単一な受容を揺るがす存在でした。個性的な活弁スターが百花繚乱の時代には時にシリアスな映画も活弁によってコメディ映画へと変貌してしまう。いわば活動弁士は、映画の登場人物にも、物申す観客にもなり、自由自在にスクリーンの境界を越境していた特別な存在だったといってよいでしょう。「サイレント映画」といいますが、トーキーが主流になるまで楽団の演奏も付いていたので、映画館はオーケストラと活動弁士が観客の聴覚と視覚をバラバラの情報によって攪乱する、まったく「サイレント」とはいえない音に満ち溢れた空間でした。活動弁士のスターダムは活況を呈しましたが、こういう「ノイズ」は、映画を演劇とは異なる芸術として位置づける「純映画劇運動」やトーキー化の流れの中で「不要」なものとして排除されてしまいました。
 木内さんは、ミシェル・フーコーによる講義録を引きながら、古代ギリシアでの「自己の立ち返り」の修練として「聴取」を取り上げておられます。フーコーによれば、聴覚は人間の感覚のなかでも「もっとも受動的であり、かつ人間の意思で完全には統御できないために、身体にもっとも驚きや動揺を及ぼすもの」で、「視覚や味覚、触覚よりも快楽に左右されないため、徳を学ぶことができる」、と。強引に結びつけるなら、映像文化史の流れというのは、身体への唐突な「驚き」や「動揺」を及ぼす偶発的な情報を排斥し、「徳を学べる」チャンスを逃してしまった歴史ということになるかもしれません。
 拙著『24フレームの映画学——映像表現を解体する』(晃洋書房、2021)の終章で、僕は現代の映像文化に「音=声の復権」を見出し、20世紀にメインストリームだった視覚中心の「思考する映画」から聴覚/触覚に作用する「快楽の映画」への変化を論じています。流行歌で音が映像よりも優位になる新海誠アニメーションをはじめとしたMTV化する映像の氾濫、説明台詞やナレーションで「ながら見」しながらでも物語が伝わる聴覚的な映像設計は、「もっとも受動的」で(主体的なモードにならなくて)よい感覚器だからこそ求められているのかもしれません。ただ同時に、2000年代はリメイクやリブート、コミックス原作のアダプテーションが隆盛し、既知の世界観の反復が顕著に見られ、音楽界では2005年の徳永英明の『VOCALIST』を皮切りにカヴァーブームが巻き起こった時代でもありました。いうなれば現代は「未知なる世界を体験するリスク」よりも、「既知なる世界に触れる安心感」を無意識的に求める時代だといえるでしょう。インターネットによる情報の過剰が根底にあるのでしょうが、要するに現代において志向されているのは、浸りたい世界に浸り、聞きたい音を聞く、そういった(擬似的)快楽です。
 「既存の価値観の破壊や転覆」ではなく「既知のものの反復と(緩やかな)差異」による「安心」を求める快楽志向——。こうしたモードでは、他者や外部へと開かれている回路が(擬似的)快楽に回収されて切断され、自己が新たな雑音や異質な事物と遭遇する機会が失われてしまいます。内向的で閉塞的な環境では、利他へと開かれる契機などおよそ見つかりそうにありません。パソコンの前に座ってネットで情報を検索してみても、見たいものしか見られないし、アルゴリズムによって読みたい本ばかりがピックアップされてしまう。閉ざされた境界を突き破り(サイレント時代の聴取のような)「驚き」や「動揺」を及ぼす「偶発性」や「遭遇」をいかに組み込むことができるか、まずはそういった回路を考えていく必要がありそうです。未知なるものに偶然「出遭う」ことは、「自己」を再発見することにもなります。不意に他者と「遭遇」して生成変化すること。たいへん素朴ですが、僕にとってのこのような経験は「旅」でした。

異質な環境/他者との遭遇

 これまで育った環境で築かれてきた自己を解体し、感受性を磨き上げるのに「旅」ほど効果的なものはありませんでした。特に若い時に異質な文化や他者との「遭遇」の機会を増やすことはとても大事で、いかにわれわれの生が環境に規定されていて、狭い世界でしか生きていなかったかがよくわかります。高校を卒業してからアルバイトでお金を貯めては東南アジアの国々に旅に行っていました。20歳過ぎたくらいで行ったカンボジアは特に大きな経験でした。当時、カンボジアの中等教育の就学率は2割にも満たなくて、小学校は9割以上の就学率があっても半分はドロップアウトしてしまう。主に経済的な事情や家庭での労働力の確保が背景にあるようですが、それほどの貧困と教育の問題を抱えていることなどつゆ知らず、アンコールワット遺跡が見たいがために若き日の僕は旅に出かけたのでした。

 まずシェムリアップ国際空港に到着し、飛行機から降り立った時点でもう皮膚感覚で異国の地に来たことを強烈に実感しました。熱帯モンスーン気候で高温多湿なので肌で感じる空気がまったく違っていて、その感覚はいまだに鮮明に覚えています。次の衝撃は、空港を出て日本円を現地通貨リエルに替えた時のことでした。数日間暮らすために2万円ほど両替すると5cm以上はありそうな札束になって戻ってきたのです。僕のもとに現地のタクシーやバイクの運転手たちが群がり、自分の車に乗ってくれ、数日間ガイドをさせてくれといってきます。行く先々でも手作りのブレスレットや花束を買ってくれと現地の人びとが群がってきました。その多くは小学生くらいの子供たち、生活していくために必死で働いていたのです。たとえば葉柄の服に身を包んで大きな葉っぱを手に持った少女が一緒に写真を撮ろうと近寄ってきて、撮ったらお金をちょうだいといってくる。お金を渡すと大喜びで遠くから見ていた母親のもとへ駆けていって稼いだお金を手渡していました。彼ら彼女らは、ほとんど小学生くらいの、小学校には通えない子供たちで、家族を支えてすらいたのです。
 安いアルバイトで「貧しい」生活をしていた僕にとって、それは衝撃というにふさわしい出来事でした。子供たちは自分が作った物を買ってもらおうと、どれだけ素晴らしいか懸命にアピールします。生きていくために必死で働く小学生の姿を日本では見たことがありませんでした。僕は「畏怖」のような感覚を抱きました。子供たちが集まってきて身動きが取れなくなり、僕はその中からひとり選んで商品を買っては別の場所に移動するようになりました。物が売れると見たこともない表情で喜んでくれます。彼女たちの作った指輪や首飾りを買うと、日本では何の生活の保証もなく必要ともされない自分がこんなにも必要とされている、苦しい生活を強いられている彼女たちに「施し」を与えることができる、そう錯覚してしまいます。後になって「省察」すれば、彼女たちが必要としていたのは「僕」ではなく、生きていくための「金」、僕もまた彼女たちが手作りした「物」が心から欲しくて買っているのではなく、困っている他者に施すという振る舞いそれ自体の心地よさに、つまり「自分の利益」にお金を使っていたのです。それはきわめて利己的な行為にほかなりません。
図 1 シェムリアップ(カンボジア)[筆者撮影]
 『歎異抄』の中で親鸞は、「慈悲」にも聖道仏教と浄土仏教で違いがあり、「聖道の慈悲」は他人を憐れみ、愛おしみ、助けてあげたいという思いからくる行いですが、「しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。(…)いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲終始なし」と述べています。すなわち、どれだけ愛おしく不便に思っても、思いどおりに救うことなどできないのだから、このような慈悲は完全なものではない、と語っているのです。もちろん、すべての人たちに施すことなどできないので、そこでは常に「選別」が行われます。選ばれる立場にしかなかった者が、突如として選ぶ立場に転じる。自らの偽善的な行いに苦しみ始めるわけです。『「利他」とは何か』(伊藤亜紗編、集英社新書、2021)で中島岳志さんが志賀直哉の「小僧の神様」を取り上げて「利他」とは何なのかを思考しておられますが、ちょうどそこに出てくる小僧に寿司をご馳走してあげる若い貴族院議員Aの抱く感覚に近いと思います——「人知れず悪い事をした後の気持に似通っている」。
 南部のシアヌークビルというリゾート地に行った時のことです。そこでも現地の子供たちは観光に来ていた欧米人や日本人観光客に物を売ったり、観光客が捨てたゴミを拾ったりして生活していました。ある日、中学生くらいの、中学校に行っていない女の子と話しました。砂浜で「○×ゲーム」(負けたら商品を買うという約束)をやり、仲良くなって色んな話をしたことを覚えています。その世間話の中で将来の夢の話になって、僕はその時なりたかったものを答えました(その時何といったかまったく覚えていません)。彼女は「私にはなりたかったものがある」という不思議な言い方をしました(ちなみに観光地で働く子供たちは生活のために英語、日本語、中国語など外国語を自在に操る人がとても多いです)。「何?」と聞くと「歌手…」と彼女は答えました。「とても素敵な夢だね。応援するよ」というような言葉を僕は投げかけました(もちろん本心からです)。ですが、すぐに彼女は暗い表情になって首を横に振りました。そして僕にこういったのです——「あなたたちは夢が持てるだろうけど、わたしたちは無理」。
 「あなたたち/わたしたち」という境界をその時はっきりと認識しました。それは国境以上の強大な「壁」です。彼女が「将来、歌手になりたい」「なりたいものがある」という未来や現在の時制ではなく、「なりたかった」と話したことが違和感だったのだと思い至りました。中学生ほどの年齢で夢や目標を諦めなければならない人がいる、ということに愕然とし、帰国してから僕は次第に絶望するようになりました。偶然、日本の中産階級に生まれたに過ぎない僕には、夢を持てない人びとの生活を想像したこともなかったからです。ウィリアム・マッカスキルによれば、世界の所得分布で見て年間5万2千ドル(最近のレート1ドル110円で計算して約570万円)以上稼いでいれば上位1%に属し、年間2万8千ドル(約310万円)で上位5%に属するようです(『〈効果的な利他主義〉宣言! 慈善活動への科学的アプローチ』みすず書房、2018)。しかも、この所得格差は各国の物価を織り込んだグラフだというので驚くほかありません。生活の苦しかったアルバイトの僕ですら(かつてとは分布は異なるにせよ)上位10%には属していたことになります。当たり前のように夢や目標に向かって暮らしていた自分が恥ずかしく思えるようになりました。残酷に思われる行いをしたことやその意識に嫌気がさし、帰国してから数ヶ月、募金などをしてみても心は晴れず、ずっと塞ぎ込んで過ごしました。
図 2 シアヌークビル(カンボジア)[筆者撮影]

 そこからどうやって立ち直ったのか、いまではほとんど思い出せません。けれどもはっきりとわかったことは、明らかに「旅」に行く前/後ではまったく違う自分になったということです。社会に対する感度がまったく異なることだけは実感しました。若い頃はカンボジアだけでなく、30カ国くらい旅をし、色んな人たちと話しました。環境を変え、その場にどっぷりと浸かることで、他者の声に以前より繊細に耳を傾けられるようになったように思います。それは知識が増えたのとは違う、肌で味わい皮膚で記憶した体験です。つらつらと過去の旅行記のようなものを書き連ねてしまいました。ただ、なぜこうした旅のエッセイのようなものを書いたかというと、異なる環境への「旅」と異国での他者との「出遭い」が「利他」を考えるきっかけになるような気がしたからです。これからもっと思考を重ね、深めていかなければなりませんが、長くなってしまったのでとりあえずここで筆を措き、旅と利他に関するエッセイはまた別の場所で書ければと思っています。
図 3 ゲストハウスにて