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第8回 固有名詞という躓きの石:無意味、親密さ、他者性 木内久美子

2021.08.10

北村匡平さま、山崎太郎さま

 お二人のエッセイを拝読したあと、固有名詞について考えていました。というのも、今回は前回にもましてお二人のエッセイに、実に多くの固有名詞が登場したからです。
 北村先生のエッセイには、ウディ・アレン、ミヒャエル・ハネケ、ジェームズ・ウィリアムソン『大飲み』、エドウィン・S・ポーター『大列車強盗』(1903)、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』、黒沢明『素晴らしき日曜日』、カンボジア、アンコールワット遺跡、リエル、シェムリアップ、シアヌークビル、親鸞『歎異抄』、中島岳志さん、志賀直哉「小僧の神様」など、山崎先生のエッセイには、アドルノ、キルケゴール、カミュ『ペスト』、モーツァルト『後宮からの逃走』、ゴットリープ・シュテファニー、アルジェリア、スペイン、トレド、オラン、北アフリカ、1708年、1732年、『ウィーン新聞』、1708年2月3日、リヴォルノ、イスラム教、キリスト教、ワーグナー、アルジェ、青年ベルモンテ、囚われのコンスタンツェ、バルバリア海賊、オスマントルコ、サンタクルーズの丘、メルセルケビルの港、などが出てきました。
 お二人のエッセイを一回目に読んだとき、すぐにリストをつくってみようと思って、ざっと作業をしてみたのですが、いまリストを見直してみて、あらためていくつかのことに気づきました。
 まず固有名詞は記憶のインデックスとなって、私とそれぞれのことばとの結びつきの強弱や、結びつき方の多様さを示してくれるということです。例えば私は映画や文学が好きなので、北村先生があげておられた監督の名前から映画のシーンだけでなく、自分がどのような映画館で作品を見ていたのかも想い出しながら、同時にアレンやハネケでなくゴダールから例を出されるところが同世代のシネフィルっぽいと思いながら(スミマセン…)エッセイを拝見しました。これは先生の論点とは無関係なものですが、対象との親しさを演出し、最終的に論点の記憶にも役に立ったようでした。
 他方、リストを作成することで初めて意識できた名前があります。シェリムアップやシアヌークビルです。初見ではこれらの名前をまったく気に留めませんでした。リスト化のおかげで見逃していると気づかされ、あらためて注意深くエッセイを読み直してみると、カンボジアの地名よりも、現地の子供たちと交わしたことばと、何より若き北村先生に注意が向いていたのだと気づきました。カンボジアに滞在して日が経って撮影された写真でしょうか。民族衣装を着ているようにも見えます。この服装で子供たちのいる海辺を歩いたようには思えません。なにか裏の物語があるのでしょうか。色々気になってきて地図で場所を調べてみると、北部のSiem Reapと南部のPreah Sihanoukがだいぶ離れていて、どのように移動したのだろうと気になりはじめ、地名のSihanoukに前国王の名前をみとめてWikipediaを読み進めてみると、1964年に建設が始まった港湾として、ながらく自然が残っていたものの、最近ではカジノなどの大規模開発が進んでいるとあり、今は北村先生の訪れた場所とはだいぶ変わってしまっているのだろうと想像していました。
 正直なところ、山崎先生のエッセイには固有名詞が多く、初見ではかなりたくさんの固有名詞を書き落としていました。とはいえ、そのことは文章のインパクトの強さの証左でもあったようです。オランという地名を起点に歴史性という終着点にむかう旅程に、正直眩暈を覚えました。それはもちろん、山崎先生のトレドからオランへの大胆な変換をめぐる徹底捜査(forensic search)において刻まれていく物語の賜物であるには違いないのですが、同時にオランという地名が私のなにかに触れ、イメージの連鎖が止まらなくなってしまったからでもあります。
 学生時代に読んだカミュの『ペスト』。そこで描かれている切迫感と弛緩の分かちがたい日常、そののっぺりとした手触りの気味悪さに、人々は次第に無感覚になっていき、漠然とした出口なしの感覚が習慣となってしまう不気味さ。それがふとオリンピック開催中のコロナ禍の猛暑、東京に折り返されてきて、オランと接続してしまったのでした。
 明日で広島への原爆投下から76年になるこの日に報告された東京での新規コロナ感染者数は過去最高の5042人、日本国内での感染者数は14207人、場当たり的に見えてしまう政策とオリンピック熱との奇妙なカップリングは、私たちの出口の生活も医療崩壊も、もはや覆い隠せないところまできています。世界での感染者数の累計はすでに2億人を超えており、世界の約40人に1人がコロナにすでに感染したことになります。
 オランと東京との錯綜のなかで、アリカンテ、サンタクルーズの丘、メルセルケビルの港という固有名詞が、山崎先生のエッセイの中で文脈なしに言及されていることに、初見では気づきませんでした。むしろこれらの固有名詞を介して、私には即座に断崖絶壁から望む地中海の青さが見えてしまったのです。その青さはオランの青さではなく、私がかつて訪れたポルト・ボウ(ポール・ボ)やアテネ郊外のポセイドンの神殿から望んだ海の青さにちがいありません。アテネにイギリス留学時代に知り合った親友がいます。コロナ禍で彼女と交わしてきたことばが、私を何度勇気づけてくれたことか。次はいつ会えるだろうか。こうした妄想のなかで、本題であるモーツァルトの『後宮の逃走』の原作者の名前がエッセイに書かれていないということに初見ではまったく気づきませんでしたが、私の妄想はいくつかの固有名詞を介して、歴史性という主旋律を確実に聴きとっていたのです。

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 固有名詞とは、言語学的には一つの特定の対象を指示する語のことで、人名、地名、会社名、商品名などの名前のほか、日付や時刻、割合などの数値もこれに含まれます。普通名詞は特定の類やカテゴリーを指示する語です。
 固有名詞の特徴は、そのことばを知っている人にしか意味をもたないということです。私はサミュエル・ベケットという芸術家を研究していますが、この名前を聞いたことない人にとっては、指し示す対象のないただの文字でしかありません。固有名詞はそのことばを知っている人には豊かな意味の広がりを与えうるのに、知らない人は何も受け取れない。こうして両者のコミュニティの境界をしるしづけています。
 もちろん私たちは知らない固有名詞を学習することができます。とはいえ、人間は分かる情報から自らの理解を組み立てる癖があり、知らないものは読み飛ばします。知らない固有名詞は無意味なものとして処理されるため、その存在に気づくことすら難しい。固有名詞を学習するには時間がかかるのです。現に私は固有名詞を一度リスト化し、そのうえで読み飛ばした地名を特定し、ようやく調べるところまで行きつきました。とはいえ、固有名詞さえわかると、得られる情報は格段に増えます。固有名詞に躓くことは、未知なるものとの関係を結ぶ可能性に開かれているのです。
 また固有名詞は既知のものと関係を更新する契機にもなります。人間は忘れやすい動物です。もちろん忘却は生存の条件でもあるのですが、失われてはいけない歴史的な記憶もあります。固有名詞はそれにアクセスするインデックスとして不可欠なものでもあるのです。
 とはいえ、リストを作成するという面倒な作業を思いつくこと自体が、学校教育を享受できた文系研究者のマインドなのかもしれません。社会言語学者の田中克彦さんは『名前と人間』の冒頭で、皮肉交じりにこう述べています。
 とはいえ、リストを作成するという面倒な作業を思いつくこと自体が、学校教育を享受できた文系研究者のマインドなのかもしれません。社会言語学者の田中克彦さんは『名前と人間』の冒頭で、皮肉交じりにこう述べています。
「私の感じ方で言えば、学校とは、見たりさわったりできない人や物の固有名詞を次から次へと頭につめ込んで、自分ではあまりものを考えない人間を作り出すところである。だから学校に入ったからには、勉強とは、固有名詞をおぼえることだと観念しなければならない」(ii頁)。
 田中さんは続けて、固有名詞を必要としない数学を筆頭に、比較的必要としない理系の学問と、歴史学を筆頭に固有名詞ばかりを並べる人文学を対比し、奇しくも固有名詞が担ってしまっている文化的な差別に切りこんでいきます。「こうした固有名詞になじみのない読者は、まるで「立入禁止! ここは教養人だけの王国ですぞ!」と宣告された気分になるだろう」(iv頁)。本書を通じて得られる知見は、いかにして人間が名づけて来たか、またその名づけが同体の境界を同定する役割を担ってきたということです。固有名詞についての知識は、知識人とそうでない人を分かち、特定の名前には言語的・民族的起源が含まれているために、人間の選別にも用いられてしまった(例えばヨーロッパにおけるユダヤ人差別)。日本の文脈で言えば、日本国籍があっても外国の名字を持つ人や、外国人に対して行われている見えない差別/区別の問題として捉えることができるでしょう。議論の詳細については触れられませんが、人文学者としては固有名詞の社会的排他性を肝に銘じておかねばなりません。
 こうした不可避なさまざまな排他性を背負いながらも、私たちには各々に親しい固有名詞があり、固有名詞を媒介に、類推の能力をもって、別の固有名詞やイメージに自由に接続していく想像力があります。とめどない連想のなかで、固有名詞の意味の広がりに際限はありません。東京という地名は、日本の首都で人口が1300万人という事実に結びつけられるだけでなく、居住者や訪問者がそれぞれに経験する場所でもあり、過去、現在、未来の東京でもあり、あらゆる経験や想像に結びつけられた複数的で相容れないイメージを、「東京」という固有名詞がことばとして排除することは原理的にはありません。
 固有名詞の豊かさといえば、私にとってはマルセル・プルーストの大長編小説『失われた時を求めて』です。プルーストは隠喩という魔術によって、土地の名に個人的な記憶、音表象や語源、歴史・文化、ありとあらゆる印象や知識の断片を次々に接続していきます。ロラン・バルトはそれを「意味性過剰(hypersémanticité)」と評していますが、その記述の圧巻ぶりは読んで体感するしかありません。プルーストの偉大さは、読者が知りもしない人や場所にたいして、じわじわと情動を醸成していくことです。そしてリアルに感じられるようになってきたというときに、こんなことを書く。
 「明くる日になったら、すぐにも一時二十二分発の、美しい素敵な汽車に乗りたいと私は考えた。(…)汽車は、バイユーに、クータンスに、ヴィトレに、ケスタンベールに、ポントルソンに、バルベックに、ラニオンに、ランバルに、ベノデに、ポンタヴェンに、キャンペルレにと停車した後に、私に贈るさまざまな名、そのどれ一つとして犠牲にすることは不可能なので、どれが好きなのかを選ぶことができないような名を山と積みながら、威風堂々と進んでゆくからだ」(鈴木訳、426頁)。
 こうなると地図でひとつひとつの地名をたどってみるしかありません。
 ここに躓きの石が置かれています。語り手の目的地、バルベックです。他の地名はすべて実在するのに、バルベックだけは存在しない。カブールというフランスのノルマンディに実在する町をモデルに描かれた架空の地名なのです。この名前は「フランス的」(バルト)響きをもっているから、実在する名前と並んでも不自然ではなく、私がフランス語の響きに馴染みがあるから驚くことができるのかもしれません。とはいえ、それはここでのプルーストの記述の本質ではありません。
 ここでプルーストは、バルベックという名にかけられた魔術を自ら解いていきます。「〔土地の名に〕名を指し示す土地から吹き込まれた私の欲望が、いつの間にか蓄積されていた」(428)、「こうして名前は、一方ではイメージを美化することになったが、またそれを現実のノルマンディ(…)の街の姿とは異なったものにする結果となり、(…)未来の旅の幻滅を深刻なものとすることになった」(429)、「これらのイメージは、(…)必然的に単純化されていた」(433)、「おそらく、私が名前のなかに夢を積み上げておいたからこそ、名前は今や私の欲望を磁石のようにひきつけるのだろう」(433-434)。こうして 『失われた時を求めて』の第一巻「スワン家の方へ」の第三部「土地の名・名」で展開される固有名についての洞察が、第二巻「花咲く乙女たちのかげに」の第二部「土地の名・土地」での土地と人についての細やかな記述に展開されていきます。 固有名詞は欲望のトリガーであると同時に、その欲望の利己性を問いに付す他者性をつきつけもするのです。そして私たちが他者の他者性と接することができるかどうかは、「バルベック」という固有名詞に躓けるかどうかにかかっています。
 未知の固有名詞に関与し、そのことばの意味システムに分け入ってみること、分け入ったあとに生ずる親密さをドライバーに発動する連想の連鎖、そしてそのプロセスを経て欲望のエコノミーに取り込まれてしまう固有名詞にさえ不可避に潜んでいる他者性がある。そんなことをここでは書きました。また固有名詞は排除と接続という両面をもつことばであるとも述べました。人間は名づける存在である。そうであるならば、固有名詞の性質は、人間の名づけそのものの性質でもあるのかもしれません。その他者性を、複数言語間での固有名詞の問題に展開して、表音文字と表意文字の違いや、その翻訳不可能性、それと同時に複数言語が生み出す異種混交性の可能性に触れたかったのですが、またあらたな話が始まってしまいそうなので、それはまた別の機会にしたいと思います。
 主要参考文献 
田中克彦『名前と人間』岩波新書、1996年. 
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』鈴木道彦訳、集英社文庫、2006~2007年. 
ロラン・バルト「プルーストと名前」『新⁼批評的エッセー』花輪光訳、みすず書房、1977年. 
小山亘『記号の系譜』三元社、2008年.