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第2回 「3」の自他へ:カコフォニー、「意味の外」の外国語、観客性 木内久美子

2021.05.18

北村匡平さま、山崎太郎さま

 この文章の書きだしで、お二人のうち、どちらのお名前を先に書くかしばらく考えました。これから書くことは山崎先生の文章への応答ではありますが、同時に北村先生に宛てられていることばでもあります。受取人はお二人でもあり、読んでくださる読者の皆さんでもあり…、とごちゃごちゃと考えていたとき、ふと「3」というのは面白い数だなと発想が切り替わりました。「三人寄れば文殊の知恵」「二度あることは三度ある」「石の上にも三年」…。こういうことわざを見ていると「3」という数は、文字通りの「3」ではなく、「3」以上の多数性、ポリフォニーに開かれていく数です。
 私はサミュエル・ベケット(1906-1989)という作家を研究しています。彼は日本では主に劇作家として知られていますが、実際には詩、小説、ラジオ、映画、テレビなど、様々なジャンルで作品を書きました。その作品のなかに、『プレイ』(1963)という劇作品があります。内容だけを平たく言ってしまえば、三角関係のもつればなしなのですが、この三人は壺のなかに閉じ込められていて、照明が当たるときだけ、壺からにょきっと現れて急き立てられたようにセリフを言うのです。ベケットは自らこの劇を演出した際、俳優に超高速でセリフを言うように指示しました。その意図は「カコフォニー(cacophony)」。観客に意味が分からなくてもよい、要はリズムだというのです。「私の作品は根本的な音を問題にしている。それ以外の責任は取れない(”My work is a matter of fundamental sounds. […]I accept responsibility for nothing else.”)」とは、よく知られた彼のことばです。
 複数の声がゆるやかに調和しながら共存しているポリフォニーにたいして、「カコフォニー」は不協和音が混じる、必ずしも心地のよくない音です。
 自己の想像力や理解力をこえる他者の訪れは、必ずしも心地よいものではあるとはかぎりません。それは、理性的というよりは感覚的に/感情的に、なかなか受け入れられないものです。ミクロなレベルで言えば、私たちは臭いものには鼻をつまむし、マクロにみれば、この世界では紛争や差別が止むことはありません。住み分けの欲求は生存のための自己防衛だという言い分もあります。とはいえ、コロナウイルスが世界的に蔓延するなか、私たちは自らの居心地の悪さを問いながら、共存していくしかないことにそろそろ気づいてもよいころです。この「カコフォニー」的状況に耳を傾け、さらに辛抱強く聴き続けることで、そのなかに自分とチューニングし始める「ポリフォニー」を聴き分けることができるようになるのかもしれません。利他はその効果として生じうる共存の試みのなかに、事後的に見いだされていくことでしょう。「ポリフォニー」だけでなく「カコフォニー」をも内包する「3」の可能性を見出しつつ、お名前の順番は、手紙の慣例に従って、受取人を先に書きました。

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 山崎先生のお手紙では、「他者をまねたい」という欲望が人間に普遍的資質として捉えられていました。外国語学習、翻訳、演劇やオペラの執筆や演技といった模倣の行為をとおして、行為の主体がふと、お手本/原文/モデルといった他者に憑依される、その奇跡のような出来事。そのために、外国語学習者は体を使い、翻訳者はことばと格闘し、俳優や歌手はトレーニングをする。そのような先生のなかで身体化された経験が、文体から伝わってくるようでした。外国語学習、翻訳、演劇における俳優論…。お手紙から受け取った問いかけはあまりに多く、またすべてが私に深くかかわるものです。ですから、ここではそのうちのひとつ、外国語について応答させていただくことにします。
 具体的には「外国語が与えてくれた自由とは具体的には何だったのか」という問いを出発点にします。山崎先生の文章で「自分の「何か」を、外国語を触媒にして、外に開放していく」とありましたが、私はその「何か」について、折に触れて考えてきました。「与えてくれる」ではなく「与えてくれた」と過去形にしたのは、この文章が一般論というよりは、自伝的な記述だからで、そのように読んでいただければ幸いです。
 約四十年前、まだ英語教育がそれほど重要視されていなかった頃の話です。近所に英語教室が開校されるというので、訪問員の方が自宅に飛び込みで勧誘にやってきました。母親が玄関を開けたのは、たんなる不用心だったのか、当人に興味があったからなのか、そのあたりは分かりません。しばらく玄関で説明を聞いてるうちに、母親よりも四歳の娘が、英語を習いたいと言い出しました。聞かされた教材テープの音楽が気に入ったのか、意味の分からないことばの連なりに興奮したのか、そのあたりのことはまったく覚えていません。両親のあいだで熾烈な議論があったそうですが、結果的には、習わせてもらえることになりました。
 このおぼろげにしか記憶にない玄関でのエピソードを聞かされるたびに、長年不思議に思ってきたのは、四歳の自分がなぜ知りもしない英語に興味をもてたのかということです。これは「外国語が与えてくれた自由とは何だったのか」という問いに直結します。英語を学びたい欲望は、どこからやってきたのか。ここではひとまず、こう応答してみたいのです――その自由とは「意味のシステムからの解放」だったのだ、と。
 「意味のシステム」について、認知言語学者の今井むつみ(1959-)さんの『ことばの発達の謎を解く』(2013)を参照しながら、さらに話を進めます。今井さんは、子どもが意味を「覚える」ことと「知る」ことを使い分けています。例えば子どもが「どんないろがある?」ときかれて、「あか、あお、きいろ…」と答えられても、「あおはどれ?」ときかれると青いものを選べなかったり(二歳まで)、「あおはどれ?」ときかれて、青い色鉛筆を選ぶことができても、同時に緑の色鉛筆も選んでしまうことがあったりする。これは子どもが意味を「覚えた」だけでは、ことばを大人のようには使えないことを示しています(154-155)。今井さんは大人のようにことばの意味を知っていることを、以下のように定義しています。
 ことばの意味を大人のように「知っている」ということは、「ひとつひとつの単語をその言語を母語とする大人と同じように使える」ということなのです。そしてそれは、他の似たことばとの意味の違いが理解でき、似たようなことばの中から状況によって単語を自由自在に選び、正確に使い分けることができるということです。言い換えれば、そのことばと似た他のことばを全部知っていて、それぞれのカテゴリーの境界がちゃんと整理できている状態にある、ということになります。それはつまりその単語と、それを取り囲む単語がつくるまとまりとしての「意味のシステム」を知っているということです(同上、155-156)。
 ことばの意味を知っている大人が当たり前に操っている「意味のシステム」の前提にあるのは、語彙の広がりとカテゴリーの境界であり、それは学ばれるもの、つまり子どもを日常的に取り囲む人とのコミュニケーション、社会や言語文化によって形づくられるものです。そのプロセスには、発見、創造、修正の三段階があります。まずはことばを「覚え」るなかで、子供は次第にシステムの存在や、ことばを創るための小さなパーツ、ことば同士の類似関係を発見する。すると、そのシステムと新たに覚えたことば(知識)に基づいてことばを自由に創るようになる。こうして創造されたことばのトライ・アンド・エラーの反復によって、修正がほどこされ「意味のシステム」が学ばれていく。四歳という年齢は、修正段階の初期にあたります。
 また岡本夏木さん(1926-2009)の『幼児期』(2005)では、幼児の言語発達の四段階が示されています。「胎児期」「誕生期」「生活化期」「自律期」です。今井さんの著作における「創造」から「修正」の段階への移行は、岡本さんにおいては「誕生期」から「生活期」への移行に対応しているように思えます。つまり、幼児がコミュニケーションに必要な対人機能や象徴機能を獲得するために「自らの力と周囲の人たちの共同作業によって、ことばを生み出す」時期から、ことばを生活の手段として積極的に使い始める時期への移行です(160-161)。この時期になると、子どもはコミュニケーションにおいて、文化や社会といった状況にフレーミングされた「意味のシステム」を分かるようになっている存在として扱われるようになり、それに応じて、子どももそのように扱われることを当然のこととして受け取るようになります。私が英語に興味をもったのは、おおよそこの時期になのです。
 それはたんなる偶然だったかもしれません。ですが、私には「意味のシステム」に分け入るなかで、違和感をもっていたような気がします。
 そう考えたくなる根拠は無数にあります。ここでは詳しく述べられませんが、そのひとつは視力の問題です。私は小さいころから目が悪かったようです。いつからなのか、またどの程度見えなかったのかは、想像するしかないのですが、テレビをかなりの至近距離から見ていたという証言があったり、集合写真では軒並みカメラを見ようとして顔をしかめていたりすることから察するに、見えにくかったことはたしかでしょう。病院が嫌いだったので、小学校でもらった視力検査の結果は道具箱に隠していて、視力を矯正できたのは7歳のときでした。そのときに左目は0.5、右目は0.7。今は両眼とも0.1の弱視で、コンタクトで視力を矯正しています。
 ことばの学びの修正の段階では、子どもは他人から修正されるよりも、自らで判断して修正するようになるといいます。人間の処理する情報の8割以上を占めるという視覚情報は、その重要な判断材料となるはずです。人間のコミュニケーションにおいて、非言語コミュニケーションの占める割合は9割ともいわれています。「見えていること」が前提に語られる物事や、暗黙知のうえに進行する状況のなかで、四歳児は「意味のシステム」をつかみとるべく、模索していたはずです。
 オーストリアの心理学者のアドルフ・アドラー(1870-1937)は「器官劣等性の研究」(1907/1984)という生理学についての論文で、「器官劣等性(Minderwertigkeit von Organen)」という概念を提唱しています。それは簡単にいってしまうと、器官の生理学的、機能的不足のことです。アドラーは、生理学的に病因が特定できない病気を、器官劣等性によって説明しようとしました。興味深いのは「代償(補償)」という概念です。器官の一部に劣等性があると、それを代償しようと別の器官が働き、それが最終的に過剰価値的な大脳活動で埋め合わされる(安田一郎訳、155)。この埋め合わせが病因になることもあれば、逆に「補償的優秀性」として発現することもあり、後者の例として、モーツァルトの耳の形の特殊性やベートーベンの耳硬化症が言及されています(79)。アドラーはのちの著作(例えば『神経質的性格について』(1912)や『人間についての知識』(1927))で、劣等性から生じる劣等感の原因として、生理的な要因よりも、環境や社会を重要視するようになっていきます。
 私の場合、聴覚情報で視覚情報の多くを補完しようとしていたはずです。あまりよく見えていないことを自覚しないまま、聞くことによって補完することで「意味のシステム」にアクセスすること――それは見えている子どものそれとは違っていたのか、そうだとして、どう違っていたのか。もしかするとすでに科学的に解明されているのかもしれません(ご存知でしたら、ぜひご教示ください!)。それでもあえて、その違いを後年の気づきとして感覚的に記すならば、自分は近視眼的だったように思えます。聞こえてくるひとつひとつのことばに耳をそばだて、ことばを過剰なまでに動員してズレを埋めようとする。自分には分からないけれど、すでに共有されている何かがあるにちがいないと、探るのに必死になる。実際にはコミュニケーションは字義通りでもなく、一語一語が完璧な連続性をもって迫ってくるような目の詰まったものでもない。多くの子どもは早い段階でそのことを察知しているはずですが、私にはそのことが「見える」ようになるまでに、時間がかかりました。
 「意味のシステム」が窮屈だったのにたいして、英語教室は自由でした。見知った日本人の先生やテープから流れてくる英語をリピートし、クラスの仲間と歌を歌い、メロディーのように動詞の活用を唱え、フレーズを丸暗記していればよかったからです。それは純粋に模倣の空間であり、「意味のシステム」からの抵抗はありませんでした。そこにあったのは、下り坂の坂道をブレーキをかけずに一直線に下りていくときのような、心地よい疾走感だったのです。
 とはいえ、外国語学習を続けていれば、当然ながら知らぬまに「意味のシステム」に足を踏み入れているものです。そして純粋な模倣は模倣のモデルは別の、模倣の宛先となる観客に出会えて初めて、模倣として成立するものです(タモリさんの外国語の物まねと、その最高の観客である黒柳徹子さんの関係を思い起こします)。この三番目の人の応答は、意図せずして模倣を完成させる利他的行為なのかもしれません。
 中学二年生のとき、日本語以外の言語を母語とする人と初めて英語で話したときのことを振り返っても、そうだったろうと思います。事前に何を話そうか考えて、紙に質問を書いていたかもしれません。それでも、実際にその人に対面すると聞きたいことが出てこない。右目の目じりからこめかみにかけて震えがとまらない、そんな初めての感覚と格闘しながら、二・三の質問を絞り出しました。そんな状況であっても、相手の応答が私の質問に対する返事であることがなんとなく理解できました。しばらくして、それが話してみなければ、得られなかった肯定的な感覚であることに気づきました。

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 「意味のシステム」という境界に意識的にならざるをえなかった経験と、ある時期まで英語と取り結んできたユートピア的ともいうべき関係は、今、外国文学を研究していることと無縁ではなさそうです。文学作品といっても多様なので一概には言えませんが、私が研究している20世紀の実験的な文学には、慣習的な意味とことばの結びつきを解体したり、二つの結びつきそうのない語やイメージを並置したりすることであらたな感覚を喚起しようとしたり、一貫性のある物語よりもイメージの連鎖を優先してことばをつないだり、アルファベットを意味づけなおしたり、表音文字であるアルファベットに表意文字的な表現を模索したりと、さまざまな芸術表現の発明がありました。どれも、ある意味で既成の「意味システム」や「慣習」の捉えなおしの試みです。文学の実験というと、特別なことのように思われるかもしれませんが、実は気づいていないだけで、誰にでも「意味システム」の境界に思っている以上に頻繁に、そしてときには自ら好んで立っていることがあるものです。これについては、また別の機会に書ければと思います。