Report

研究会レポート Vol.3
ゲスト:井田茂教授(地球生命研究所 副所長、主任研究者)/
藤島皓介准教授(地球生命研究所 准主任研究者)

2020.11.20

未来の人類研究センターの利他研究会第3回、今回のゲストは井田茂教授、藤島皓介准教授のお二人です。井田先生は惑星形成論、藤島先生は宇宙生物学をそれぞれ専門とされていますが、お二人とも東京工業大学の地球生命研究所(Earth-Life Science Institute: ELSI)で研究を行っています。
伊藤亜紗センター長から事前に「ヒューマンサイズにとどまらない視点をお二人からいただけたら」とお願いされたという井田先生と藤島先生、それぞれご自身の専門分野から考えられた「生命」に関するお話をしてくださいました。そしてディスカッションへと流れるなか、いくつかのキーワードが発端となって、天体衝突の瞬間のように、言葉同士の衝撃波が見えるかのような時間が渦を巻くさまを、私は目撃しました。
どうぞ楽しみに最後までお付き合いいただけたらと思います。まずは藤島皓介特任准教授による「生命とは何か」というお話から始まります(※2020年4月24日にZOOM上で行われました)。

「生命」の本質を考える

2011年から2016年の5年間、NASAに在籍しておられたという藤島先生ですが、NASAで働きたいと思ったきっかけは、「生命とは何か」「生命とはどこでどういうふうに誕生したのか」ということに興味を持ったことだったそうです。そんな藤島先生のお話は、「細胞」「ウイルス」「クマムシ」「アンドロイド」という4枚の画像を並べて、「さてどれが生命でしょう?」という質問からスタート。答えは全部○。「外界からエネルギー/構成要素を獲得し、自らの部品を再構成して自分と似たようなものをつくっていく」ということを「生命」と定義するなら、この4つはすべて「生命」ということになるそうです。

さてその「外界からエネルギーを獲得する」ために私たち生命が必ずやること、それは「食べる」ということである、ということで、お話は「食」へ。生物学的に言うと、「食べる」すなわち「食」の本質とは、「電子を取り込んで、最終的に熱や排泄物として吐き出していくこと」だそうなのですが、実は私たちは「電子をあげたがっているもの」「電子を欲しがっているもの」をうまくマッチングさせて取り込むことで電子のやり取りを行っているそうなのです。人間で考えてみると、たとえばおにぎりを食べるとき、炭水化物と同時に呼吸によって酸素も取り込んでいるわけですが、この炭水化物は<電子を豊富に含む(電子をあげたがっている)もの>、酸素は<電子を欲しがっているもの>だそうなのです。するとここで電子のやり取りが行われ、私たちはエネルギーを獲得することに成功するわけです。このような、「たくさんある電子をあげたい」「電子が欲しい」というものの組み合わせには多くのバリエーションがあり、藤島先生はこれらを「生命のアラカルトメニュー」と呼びます。

さて、このアラカルトメニューから選んだものでエネルギーを獲得した我々は何をしようとしているかというと、その目的は「代謝」です。代謝によって、私たちが知る生命は生体膜やDNA、タンパク質といった自分の構成部品をつくっています。そしてこの「代謝」という重要な営みを担っているのは、タンパク質+ミネラルで構成される「酵素」。タンパク質が料理人となって、鉄・亜鉛・マンガン・カルシウムといった様々なミネラルを調理器具として使いながら、どういう有機物を組み合わせて調理するかを決めている、とのこと。私たちの知り得ないところでこんなレストランが開かれていたとは驚きです。

しかし、私たち生命にはあらゆる種類があり、その構成部品も実にさまざまです。それでもそれぞれの生物が自らに特化した複雑な酵素を何度も作り直すことができるというのは、いったいどういう仕組みなのでしょうか。その秘密は、我々みんなが持っているという「図書館」にあります。この図書館にある情報を使って必要な酵素の「設計図」がつくられ、それが翻訳されて適切なタンパク質が正確につくられる。「生命の本質というのは、エネルギー代謝を可能にする酵素の情報をDNAに格納し、そのDNAをコピーして次世代に受け渡すというシステム」だと藤島先生は話します。こうして説明を受けると、まるで自分の中に1つの街があるようで、その複雑さとそこにある物語にただ驚くばかりです。

最初は地球からの恩恵を受けて生まれたという我々「生命」ですが、藤島先生は「ある程度生命の多様性が出てくると、ある生命が他の生命を生かす、共生の関係に速やかに入っていったと考えられる」と話します。たとえば、メタン菌という微生物の排泄物であるメタンには電子が豊富に含まれていて、これはメタン酸化細菌という菌にとってはエサになる。その一方でメタン酸化細菌が排泄する二酸化炭素は逆にメタン菌のエサになる。自分の事情で生きているだけなのに、知らぬ間にお互いにとっての利他になっているわけですね。我々の世界でも、捨てるつもりのものをもらうのは気が楽だったりすることを考えると、後腐れのない爽やかな利他がここでは行われている気がします。

生命の利他性は、電子のやり取りで
1つ記述できるのかな、と思う

藤島皓介

エネルギー利用の歴史と人類の未来

生命がエネルギーを獲得する方法の1つとして、先ほど藤島先生が紹介してくださった「呼吸しながらおにぎりを食べる」のように有機分子を酸化する方法のほかに、生命はさまざまな方法を用いてきました。たとえば太陽光エネルギーを利用する生物。彼らは光合成によって水分子の中にある電子を取り出して使いますが、この方法を生命が用い始めたのはなんと27億年ほど前に遡るそうです。さらに、電流から直接体内に電子を取り込む、すなわち電気を利用する細菌もいれば、ATP合成酵素(久堀徹先生のお話に出てきた、ほうれん草が持っているやつですね!)というタービンのような仕組みを使って化学ポテンシャルを運動エネルギーに変換を行う生物もいます。

一方で、私たち人類がエネルギーを利用してきた歴史を見てみると、生命のエネルギー利用の歴史とほとんど同じであることに気づきます。「生命が地球に誕生してまもなく、酸化(燃焼)・電気・運動・光エネルギーについては、すでに分子レベルでその利用方法が発明されていた」と藤島先生は話しますが、それから30数億年経った後に、人類は最初に火を使い始め、タービンや電気や光を利用しながら暮らしを整えていき、今では核や原子力、核融合といったエネルギーを使うようになっています。

今後は「宇宙規模でのエネルギーの新発明のようなものが連続して起きてくる」だろうと藤島先生は話します。エネルギーが増えると、生命を構成する分子の量(バイオマス)も増える、すなわちより多くの生命を生み出し(それが自然であれ人工であれ)、維持できる可能性も大きくなるわけですね。しかしその一方で、「使えるエネルギーの量が大きくなればなるほど、核エネルギーのように一瞬で私たちを滅するような諸刃の剣になってしまう可能性もある。」エネルギーは私たちの生みの神でありながら、死神にもなり得るということですね。取り扱いには注意しなければなりません。

自己複製とエネルギー

藤島先生のお話を受けて伊藤先生は、「自分たち生命がやっていることが要は発電所と同じ」ということに衝撃を受けた、と話したのち、その発電とほとんど同じ仕組みである私たちの「代謝」という営みと、もう1つの生命の重要な要件でもある「自己複製」の関係について尋ねます。この問いに対して藤島先生は、まず我々生命の自己複製のペースがいかにさまざまであるかについて解説してくれました。

自己維持のためだけにエネルギーを最小限に使って生き、「自己複製は1万年に1度するかしないか」という生命もいれば、他の菌との競争に勝つためにできるだけ仲間を増やそうと「20分に1回分裂する」生命もいる。自己複製、すなわち自分の部品を再構成するには膨大なエネルギーを要するため、その戦略は生命によってさまざまなのです。

驚くことに、藤島先生は「自己複製という機能は、ひょっとしたら副産物のような形で出てきた可能性がある」と話します。最初は単に自分を維持するためにパーツを再構成していたところ、あらゆるパーツがだんだん余ってきてしまった。そこで「自分という総体がもう1つできるくらいの分量ができたときに自己複製をする」というシステムに変わっていった。実際に、パーツを増産し続けるなかである刺激がたまたま加わり、そのときちぎれた部分に個体としての機能がすべて揃っていた場合に自己複製する、という生命もいるそうです。つまり、自己複製するかどうかは、パーツの増産に必要な分子や金属が周囲にどれだけ揃っているか、という環境に依っている。自己複製が環境に左右されるという点では、広い意味で私たちの世界でもまったく同じと言えるかもしれません。

共に生きることは殺すこと?

ここで藤島先生のお話にあった「生命というのは、ほとんどの場合において単独では生きられない」という問題について、中島先生から1つの問いが投げかけられます。他の生物と「共生」するということには、「殺す」ということが必ず入ってくる、つまり「私たちは殺しながら他の生命を生かす」ということをやり続けている、ということ。これはキリスト教でいうところの「原罪」、仏教においては親鸞が見た「悪」にあたり、私たちはこの問題から逃れることができない。この点について、これを生物学の観点からどういうふうに見ることができるか、と中島先生は尋ねました。

藤島先生は、我々動物は「有機物を摂らなければならない、すなわち植物や動物といった他の生き物を取り込んで消化し、それを酸素に結びつけて得たエネルギーによって、自己というものを維持している。まさにそれは『殺生』だ」と答えた上で、「ひょっとしたらそこから逃れられる方法があるかもしれない」と衝撃の事実を明かします。

「いちばん最初の生命はおそらく水素や二酸化炭素のようなガス、あるいは自然に生じる単純な有機物、要は地球が生み出す餌を食べながら生きていた。そのような微生物は現存していますし、倫理的に人間の遺伝子を改変するのはご法度ですが、我々もそのように生きていくということは、理論的には可能です。」生命はその起源に近づくほど地球という惑星がもたらしてくれる無機物/有機物に依存していたはずので、そう考えると「殺生という鎖からは解放される」そうなのです。

生命の本質は、実は「殺生」ではない

藤島皓介
すると中島先生は、我々生命が地球からもたらされるエレメントを食べていたということならば、「つねに何かからの贈与が生きるということに関わっている」のではないか、と展開します。「太陽」の例を挙げながら、贈与を表すgiftという単語には「毒」という意味も含まれる、というマルセル・モースの『贈与論』(1925年初版発行、邦訳『太平洋民族の原始経済』日光書院、1943年初版)からの引用を示しつつ、「私たちの生命は贈与によって成り立つ、しかし贈与は場合によっては毒を含むものである」ということを踏まえた上で、この問題をどう考えるかを藤島先生に尋ねました。

これに対し藤島先生は、「太陽のような光エネルギーを放つ中心星から、ある程度の距離をとって天体があり、そこに水や必要な元素が揃ったときに必然的に生命が生まれるのならば」と前提した上で、「もたらされること(=贈与)が決定事項になるわけなので、それはもう贈与ではなくgivenですよね」と応答します。そして、「生命が必然的に生まれるような相対なのかどうかについては、科学を超えた議論が必要」と付け加えました。

宇宙においては、贈与が自然の行為のようになり得るのかもしれない

藤島皓介

地球の生命は1種類しかない

ここでマイクは本日のもう1人のゲストスピーカーである井田茂先生へ。井田先生はいきなり「地球の生命は1種類」というお話からスタートします。さきほど藤島先生も「生命は地球生命という1種類」とさらりとおっしゃっていて、「えっ」と驚くうちに時間がどんどん過ぎていったのですが、井田先生がここでその件を詳しく説明してくださいました。

地球生命は、その本質である代謝や遺伝の仕組みが共通している。そのため、バクテリアもゾウリムシもイネもコウジもメタン菌も、そしてヒトもすべて同じ祖先から分岐したものだと考えられているそうなのです。このお話で最も驚いたのは、井田先生の「生と死の問題は、生物全体で見たら重要性がない…とは言わないけども、ガチッとした概念ではない」という発言。「植物は種があればずっと生きていくわけだし、動物も体細胞は死にますけども、生殖細胞はある意味死なないわけですよね。」この観点から見ると、私たちは38億年前の誕生から「死んでいない」とも言えるということですか! と思うと突然カメラがサーっと引いて自分が壮大な地球史の一部であるようなイメージが迫ってきて身震いしました。井田先生や藤島先生の死生観は、私のような者のそれとは全然違うのかもしれません。

「生と死」の問題は、生物全体で見たら
そんなにガチッとした概念ではない

井田茂

地球外生命はすぐそこに!?

井田先生は、酸化還元反応によってエネルギーを取り込んで生きていくのが生命の本質である‥‥かどうかはよくわからない、と言います。「共通祖先から分かれてきた微生物や植物、動物しか私たちは知らない。」これは単に現在地球に生き残っている生命の特性であって、私たち地球生命が唯一無二の生命である保証はない、ということです。

これはつまり、地球生命以外の生命の可能性があるということ。井田先生は、「地球外生命に関わるデータが、実際の観測データとしてどんどん出てきそう」と話します。本来、惑星物理学や惑星形成論を専門とする井田先生が東工大の地球生命研究所の副所長・主任研究者となり、アメリカのHarvard Origins of Life InitiativeやカナダのOrigins Instituteがいずれも惑星系の研究者が所長を務めている、というのはこういった流れがあるからだそうで、「いわゆる天文学関連の人が、何が生命の本質なのかを考えざるを得ない状況になってきている。」

具体的には、「暑すぎず寒すぎず、海がありそうな惑星」がたくさん見つかっていて、そこの大気に水蒸気の存在している(つまりは惑星表面に海が存在している可能性が高い)惑星もすでに発見されている。しかし「中心星」が太陽とはまったく違っていたりして、その環境は「第二の地球」と呼べるようなものではまったくない。井田先生曰く「地球のイメージで捉えるのでは到底追いつかない」。そこに生命はいるのか、いやそもそも何をもって「生命」と呼ぶのか、という問題が発生し、惑星研究者たちは「生命」の定義を考えざるを得なくなっている、というわけですね。

私たちはいったい何を知ることができるんだろうか、
ということが大きな問題

井田茂

どこからどこまでが「私」か

井田先生の「生命」に関するお話を受けて、若松先生は「私」という問題を投げかけます。「生命」と「私」。この2つは、ある意味では同じものを表していながら、同時にその内訳は大きく異なるとも言えます。「『私』という問題がなければ、私たちはこんなに生命の起源を追い求めることはないんじゃないか」と若松先生は問いかけます。

お正月に全員一緒に歳をとっていたかつての日本における「私」と、「私の誕生日」なるもの祝うようになった近代の日本での「私」、その概念が大きく変化したであろうことは想像に難くありません。さらに哲学の歴史を見ても、「巨大な発展を遂げる起爆剤になったのが『私』」であり、「原始的なものとそうじゃないものをつなぐ、とても重要なポイントとして『私』がある」と若松先生は話します。この「私」がどう位置するかによって「生命の見え方というのはずいぶん違う。」その上で、「電子の仕組みから見ると『私』はどう見えるのか」と問うたところ、藤島先生は次のように語りました。

「分子構成的な話をすると、私たちの体のすべての元素は、おそらく3〜4年で全部入れ替わっている。だから、『私』という個体そのものは実はつねに流動的で、外部とのやりとりの循環というか、物質やエネルギーの流れの渦みたいなもの。」「情報学的に見ても一度も断絶がなく、我々それぞれに親がいて、その親にもまた親がいて、一度も途切れることなくここまで情報を受け継いできた、38億年間。『私』はそういった歴史の長い枝の先端にいる。」

究極的には「個」というものは、たぶん、ない

藤島皓介
なんということでしょうか。やはり私たちは一度も死んでいなかっただけでなく、ちょくちょく入れ替わっているようです。そんな状態にある私たちがこんなに「私」あるいは「個」を意識するようになった直接的な理由や時期は明確にはなっていないようですが、状態としての「個」が生まれたのは「『膜』というものができた瞬間」。また「膜」の話がここで出てきました。利他プロジェクトが始まって以来、いくつもの現場でことあるごとに登場する「膜」、これはもはや利他キーワードの1つですね。

さて、「『私』という個体は流動的で、外部とのやり取りの循環である」と言い放つ藤島先生に対し、中島先生がヒンディー語、そして仏教における「私」の話を持ちかけます。ヒンディー語で「私」は「マエ」、「私たち」は「ハム」と言うそうなのですが、インドの人たちは自分の話をしているのに突如として「ハム」を使うことが結構ある。中島先生はこれを、「私の中に『私』が自己完結していないというか、そこに死者や他者が含まれている、現象としての『私』」と表現します。

また、仏教における「私」は「五蘊(色・受・想・行・識という5つの構成要素)がたまたま合わさって作られた現象」であり、さらに「外からやってくる様々な縁という力によって、この構成要素は日々変化をしている」。つまり、「絶対的な『私』というものは存在しない」。これは先ほどの藤島先生が言うところの、流動的な「個」の話ととてもよく似ています。

そんな流動的な状態をもたらす「代謝」をくり返しながらも「私」が維持される理由については、これまでさまざまな分野で議論されてきました。日本の数学者の岡潔(1901-1978)はその最終講義で「代謝」について話し、細胞が日々変化しながらなぜ「私」は維持されているのかについて話し、「そこには自分を超えた存在──彼はこれを「主宰者」と呼ぶそうです──を想起しなければ、『私』が維持されているということに解決がつかない」とした。また、生物学者の福岡伸一(1959-)の「動的平衡」というのもこの流動的な生命の状態を表すもので、彼はここで、つねに細胞が変わっていくのに「私」が平衡を持って保たれているのは一体何なのかについて論じている。中島先生はこうした例を挙げた上で、「代謝」と「私」の関係が宇宙生物学の視点から見るとどのように捉えられるのかについて、再び藤島先生に尋ねました。

この問いに対して藤島先生は、実は代謝こそが私たち個々を「私」たらしめている、と話します。たとえばユーリー・ミラーの実験(ハロルド・ユーリーとスタンリー・ミラーによる原始生命の進化に関する最初の実験的検証の1つ)では、混合気体を合わせてそこに稲妻を落とすと糖やアミノ酸ができる、すなわちガスから生命に関わる分子が作れることがわかったのですが、これだけでは「部品ができておしまい」。その後のエネルギーの流れをつくる「代謝」のような反応がなければ、それが「生命」となることはないそうなのです。「つまり、生命が代謝をしているんじゃなくて、代謝系のような反応が立ち上がって初めて生命につながる。

自分自身に関連する部品を再構成するこうした代謝反応は「オートカタリシス(Autocatalysis:自己触媒反応)」と呼ばれるそうです。中島先生のこれまでの利他研究では、さまざまな局面でこの「オート(auto)」という言葉がキーワードになってきました。「オートファジー」の大隅良典先生・伊藤亜紗先生との利他鼎談MDL特別企画での連続講座「利他的であることvol.2」、そしてみんなのミシマガジンで連載中の「利他的であること」の「業力─It’s automatic」でも、利他を考える上での「オート(auto)」の重要性が語られています(中島先生のテーマ曲は宇多田ヒカルさんの『It’s Automatic』だそうです)。別の地点からそれぞれ進んできた藤島先生と中島先生が、同じ部屋にたどり着いたかのような瞬間でした。

私たちの意思の外部で何かが動いているという
世界を捉えることが重要

中島岳志

「私」という視点、天空からの視点

若松先生が発した「私」というキーワードから、藤島先生と中島先生が「オート」の部屋へと向かう一方で、井田先生は同じキーワードから「視点」の話をテーブルにのせます。科学について議論するとき、自分というものを中心にして広げていく場合と、宇宙全体から考える場合がある。すなわち「私という視点」と「天空からの視点」があるそうなのです。しかしそれらはつねにくっきりと分けて語られるわけではなく、渾然としている。国際会議の場でも、研究者たちがそこをうまく整理できないまま話すため、「ときどき議論がぐちゃぐちゃになってしまう」と話します。

そこで伊藤先生は、「『私』という視点を超えて天空的な視点にいくときに、想像力が限界を迎える」と話しながら、想像力が及ばない複雑なものとの付き合い方に話を展開します。ここで伊藤先生が例に挙げたのは、体の研究で出会う「痛みを抱えている人」。たとえば幻肢痛(手足を切断した人が、無いはずの手足に感じる強烈な痛み)が発生する要因の1つには低気圧があるため、彼らは赤道付近で台風が生まれると調子が悪くなったりする。この現象が日々起こることによって、彼らの身体感覚は非常に大きくなり、「痛みが自分の想像力を超えるきっかけ」になっているそうなのです。

体に痛みを抱えている人は、
ネットワークの意識の仕方がすごく面白い

伊藤亜紗
井田先生ご本人は、大学の学部までは物理学科で宇宙論を学ぶ際に「天空からの視点」を身につけたのち、大学院で地球物理をやるにあたって「地球(私)からの視点」を身につけざるを得なくなったという経験から、両方の視点が装備されている状態です。若松先生は、「旧約聖書を順番通りに読む」ことによって、世界の創造から「私」の心まで、すなわち天空の視点から「私」の視点への旅ができる、と話します。

つまり、「視点」とは体験によってつくられるもの、ということでしょうか。個々の体験からつくられるその人の「視点」からしか見えないものを持ち寄って話しているのが、まさに今のこの研究会の場であるのだな、などと考えると、議論とは関係ないところで一人胸がいっぱいになるのでした。

話を戻しまして、藤島先生による「視点」の今後の可能性の話をご紹介します。「目に見えないところをもう少し大きな規模でセンシングできるようになると、我々と地球、あるいは人間同士のかかわりをもっと感じとれるのかもしれない。たとえば、紫外線が見える/濃度が薄い特定のガスを感知できる/気圧変化を体感できる/地球上のとこかで火事が起きると体の一部が熱くなる/半径5キロ以内で人が亡くなったらチクッと痛みを感じる、といったようなことが可能になると、『個』を超えて、世界のさまざまな変化にセンシングできるようになる。テクノロジーによって想像力だけだと足りない部分を補うようなやり方はあるんじゃないかな。」

「死」の人称と思考の限界

最後に若松先生が、「生命」を考えることの難しさをについて話します。現在のコロナ禍の世界で、「我々は穏やかに『死』に直面している」。「僕は「死」には人称があると思っていて、一人称の死は『私の死』ですよね。二人称の死は『私の大事な人の死』。三人称の死というのは『人々の死』。四人称の死というのもあって、これは『すでに亡くなった人』。『今日30人の人が亡くなりました』というのと、『自分の愛する人が亡くなった』というのは同じではない、というのが我々の現実で、そこからなかなか逃れることができない。そこで問題になっているのは「生命」そのもの。これをどう考えていくか」と話します。

中島先生はここに「2.5人称の死」という問題がある、と言います。「志村けんや岡江久美子が死ぬと、2.5人称の死にぶつかります。これは『統計』と『あなた』の間をつなぐ、とても重要な何かなのかな、と思う。」

「生命」を考えていくのに
「思考」だけでは何か足りない

若松英輔
今回は、前回の久堀先生に続いて理工系の先生方をお迎えして行われる研究会の第二弾でした。藤島先生、井田先生それぞれによる「生命」のお話にちりばめられていた利他キーワードに、センターメンバーの先生方が別の場所からの視点をフックすることで、そのやりとりから猛スピードで編み物ができあがっていくかのような、猛烈な議論が展開されていきました。「殺生」→「贈与」→「生と死」→「私」という問題→「視点」→「想像力」→「思考」といった言葉が絡み合い、雪だるま式に大きくなりながら、速度を増して転がっていく様子を目撃しながら、ここにこそ人間の意志を超えた何かが渦巻いている…! といった気持ちになりました。最後に利他と実は深いところで関わっている磯﨑先生の今回のご発言をお伝えして、第3回研究会レポートは終わりです。

トンデモ話を書く人じゃないと、
どこか信用できない

磯﨑憲一郎
(目撃と文・中原由貴)