Report

利他鼎談レポート
大隅良典特任/栄誉教授
伊藤亜紗准教授・中島岳志教授による
「利他」鼎談

2020.05.18

未来の人類研究センターは、理工系の大学である東京工業大学の科学技術創成研究院の中に設置された人文系のセンターである、ということは、このHPをご覧のみなさんはすでにご存知ですね。理工系の環境の中で「利他」について考える面白さについては、伊藤亜紗センター長がRita Radio 001でもお話されています。
しかし、具体的にはいったいどのようにして理工系と人文系が手を携え、どういう形でその出会いが面白いものになっていくのだろうか──そんな懸念をよそに、センター発足からわずか1ヶ月半のある初春の日、「オートファジー」の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典教授と、センター長の伊藤亜紗准教授、利他プロジェクトリーダーの中島岳志教授との鼎談が実現しました。「利他」を囲んで、理工系と人文系がどのようにして交わるのか、現場で起こった静かな爆発をお届けします。

サイエンスを「文化」として考える

東工大のすずかけ台キャンパスの一室に三者が集まり、伊藤先生が最初に切り出したのは、大隅先生の「サイエンスを『文化』として考えていきたい」という言葉についてでした。

日本では科学というと、次に出てくるのは
何の役に立つの」というキーワード。
そういう社会通念が少し破れてくれないかな、
というのが根底にある。

大隅良典
丁寧に言葉を選ぶような様子で話し始められた大隅先生から、最初にゆっくり出てきたこの言葉。その静かなトーンとは裏腹に、初っ端からすごいパンチ力でした。
「人間が効率だけで生きているわけではない」ということを示す例として先生が挙げたのは、先生のお友達で細胞生物学者であり、歌人としても有名な永田和宏教授がよく引き合いに出されるという、「陸上選手が新記録を出す瞬間を見たり、音楽会でいい演奏を聴いたりした人たちが『ああ、よかった』と喜ぶのは、それが役に立ったからではない」というお話。「サイエンスがこういった種類の活動だ、ということが理解されると、もう少し人間の社会が豊かになるだろう、というのが私の思い。」

南極探検やアポロ計画のニュースが世を賑わしていた頃に子供時代を過ごした大隅先生は、当時、右肩上がりの世の中で、余計なことを考えなくても「夢が拡がっていた」と話します。それに対して今、「人間が抱えている問題はあまりにも大きく、本当に大切な議論はなおざりにされていく。そんなに私も未来に楽観的になれなくなっている」とした上で、先生は次のようにおっしゃいました。

たくさんの人が科学的であること。
それ以外に人間の未来はない。

大隅良典
「科学的である」というのは、「知的な活動とか真理とか、そういうものを大事にすること」、ひいては、「知ること自体を楽しむこと」。それはきっと、「役に立つかどうか」に躍起になることとは、遠く離れたところにあるものです。

「知ること自体が楽しい」ということを。
たくさんの人に表現するもの、それが科学である。

大隅良典
「科学を『文化』の1つだと認める。『文化』ならばそれは経済的な効率で測れるものではない。たくさんの人がこれを理解してくれないことには、科学を守りきれないでしょう」という大隅先生の言葉はずっしりと響きました。そしてこの経済的な効率、すなわち「役に立つ」とは違う価値を持った「文化の1つとしての科学」に、「利他」との共通項を見いだした伊藤・中島両先生の目は輝いていたように見えました。

 

「オートファジー」はシヴァ神か!?

ここで中島先生は大隅先生に向けて、突如としてヒンドゥー教の「マクロコスモス」のお話を始めます。ヒンドゥー教の世界では、古いものにそれほど価値を見出さず、「一定の期間が経つと壊して作り直す、というのが非常に重要なサイクルとして考えられている」。このサイクルでは、破壊の神「シヴァ」、創造の神「ブラフマー」、そして秩序を維持する「ヴィシュヌ」という3人の神によって、破壊→創造→維持がくり返されている、とのこと。
この営みは、大隅先生の宇宙、すなわち顕微鏡の中の「ミクロコスモス」で起こっていることと何かしら共通するところがあるのではないか。さらに中島先生はここで次の言葉を大隅先生に投げかけました。

「オートファジー」はシヴァ神じゃないか、
と思えるようなところがある。

中島岳志
そして中島先生はさらに、こういったある1つの原理が「利他」という考え方ともつながっているんじゃないか、と考えていると付け加えました。
大隅先生は、最初と同じように言葉を1つ1つピンセットで拾いながら話すような丁寧な仕草でこれに答えます。先生はまずこのヒンドゥー世界でいうところの「破壊」を、生物学界の「分解」に、「創造(建設)」を「合成」になぞらえながら、ご自身の学生時代の頃から、生物学という分野において「王道」と呼ばれる研究がどう変化してきたか、すなわち科学研究の「時代性」について話してくれました。そして「分解」に目が向いてきた時代に自分がたまたま居合わせたんだろう、と話した上で、次の言葉を放ちます。

合成ばかりで世の中の原理が成り立っているわけではなくて、
作られたものが壊されることで次のステップに入る。
それですべてが平衡状態になるので「分解」は「合成」と同じくらい大事。

大隅良典
さらに先生はここで「都市を見てみても、建設ばかりがあるわけじゃない。作っては壊し、という作業なんだということも、時間軸をしっかり捉えると見えてくる」「新しいもの、役立つものを作ることに世界は目を向けてきた時代が続いた」「作るだけでは社会は成り立たない」とした上で、経済優先でGDPが増えることを目指す社会では「合成」つまり建設に目が向いてしまう、と警鐘を鳴らしました。

 

グルグル回る感覚、贈与としての利他、そして「当たり前」

中島先生は、大隅先生の「作っては壊し、という作業なんだ、ということも、時間軸をしっかり捉えると見えてくる」という言葉から、「時間の円」というキーワードを導き出し、次の例を提示します。

ヒンディー語で「明日」と「昨日」、
「明後日」と「一昨日」は同じ単語。
円環している時間、という感覚なんだと思う。

中島岳志
そして、「見返りを求めずに何かを与える、これをずっと続けることによって、大きな有機的なつながりの中で何かが返ってくる」という「贈与」の概念もまた、この円環する時間のように「グルグル回る感覚」があるとして、「グルグル」と「利他」のつながりを示しました。その上で中島先生は、大隅先生の研究とこの「グルグル」や「利他」に、何か関連するところがないかどうかを尋ねます。 大隅先生はこれを受けて、「利他」には何かしら心理的な要素が入っているように思われるが、生物界で行われている利他的なこと──たとえばカマキリの雄が雌に食べられるといったような──は、種が保存されていく上では「当たり前」のこと、と話します。すなわち、現象としての「利他」は生物界では当たり前のこととして日々行われており、心理的な意味を伴う「利他」について言うならば、生物界で起こっていることは決して「利他」ではないことがたくさんある、と。
このとき、生物界と人文界が、「利他」を通して別の方向からピッタリつながったのを見た気がしました。「自分は何かを持っているから、持っていない人に施しを」「健常者である私は障害者の人を助けてあげたい」といった、パッと見の「利他」は実のところまったく「利他的」ではなく、むしろ感謝を伴わないほど「当たり前」の行為に「利他」が潜んでいる。これが、センターが考えるところの「利他」の本質に近いということは、プレ研究会レポートVol.1Rita Radio 001でくり返し話されてきたことですね。このお話を、別の入り口から入って話してくださったのが、大隅先生による生物界の「利他」だったのではないでしょうか。
さて、この世紀の瞬間を経て、物語は最終章「膜」へとつながっていきます。

 

「膜」──分かれているけど、つながっている

現在は美学者であり、障害者の研究をしておられる伊藤先生、実は学生時代は生物学をやっておられたそうです。その頃にすごく面白いと思っていたのが「膜」。

「膜」は、分かれているんだけどつながっている、
とても不思議なもの。

伊藤亜紗
「文転してしまうと、この感覚が消えてしまったのがちょっと残念」と話す伊藤先生。文系になり、単位が「人間」になってくると、主体性やその人の能力などで表される「個」が主体として話されるようになるけれども、伊藤先生は「本当にそうなのかな」と疑います。というのは、たとえば障害を持っている人の能力はネットワーク的で、「その人が見えなくても周りの人との関係の中で見えている」。この、実際に生きていく上で他者と分かれていない感じが、「膜」的な発想に似ていると話します。
一方、大隅先生は、この伊藤先生の「膜」の話を受けて次のように説明をしてくれました。

生命が誕生したときに、「これは生命です」というには境界が必要。
生命の誕生そのものに囲いを作りました、
というバリアとして必要なのが「膜」。

大隅良典
生命は、外側との境界を作らなければならない一方で、外からエネルギーなどの分子を取り入れる必要もある。モノが勝手に出入りしない機能と、必要なモノを入れたり出したりする機能の両方を備えた生体膜は、「ものすごく優れたバリアファンクション」と大隅先生は言います。

外と隔絶していたら、生命はなかなかうまくいかない(笑)。

大隅良典
これを「生体膜があります」「脂質二重層でできています」「膜電位を生じます」というふうに難しくしないで、本質を理解すれば、もう少し細胞って面白い存在に見えてくるのにな、という大隅先生のご意見に、まさにこの辺りで挫折したという伊藤先生は激しく同意しておられました。ここから、文系・理系を分けるナンセンスさ、今人々から余裕がなくなっていること、そしてその余裕の無さが生んだ「コミュニケーション能力と時間感覚の欠如」という深刻な問題、と話はどんどん展開し、今の社会が抱える問題が次々に明らかになっていきました。大隅先生は「楽観的にはなれない」と話しながらも、最後に次の言葉を残していかれました。

まあ、個人が自分の持ち場でがんばるしかないな。

大隅良典
大隅先生と、伊藤先生、中島先生が囲んでいた大きな楕円のテーブルはきれいに磨き上げられていて、漆黒の表面には3人の顔が写っていました。お話が進むにつれ、そのテーブルには気づけば「利他」がのっていて、実は3人で同じことについて話していた、というような、とても不思議な現象を目撃した気がします。

 

(目撃と文・中原由貴)